暮らしの顛末(くまくまコアラ)

40代サラリーマン、4人家族と2匹の犬の日々の暮らしの顛末をお届けします。 趣味はカメラ撮影、観光、旅行、アウトドア、キャンプ、登山、アフェリエイトなどなど田舎暮らしに憧れつつも都心でミニマリスト的な暮らしをしている。 最近はシェア畑を借りて畑仕事もしつつ、ウィークデーはIT関連の仕事をしている者です。 よろしければ読者登録、ぜひぜひよろしく! ↓

実在した忍者や忍者なのかもしれないと噂されている人物一覧

忍者が嫌いという人は少ないと思います。
男の子なら誰しも忍者に憧れたはず。
そんな忍者には数々の伝説があり、漫画で得た知識しか持ち得てないよって人も多いはず。

大人の夏休みの自由研究ではありませんが、少々忍者の事について調べてみましたのでまとめたいと思います。

興味がある人物が見つかれば各々深堀して調べていただければと・・・

 

 

大伴細人(おおとものさびと)

現在知られている歴史上最古の忍者。

聖徳太子に仕え、主に諜報活動を行っていた人物で、聖徳太子が蘇我馬子と共に河内の豪族である物部守屋の討伐を行う際にも何やら裏で活躍していたと言われる。

そして聖徳太子によって志能便(しのび)と名付けられたとの事。

大伴細人は伊賀出身であるという説があり、歴史上もっとも古い忍者なのであるのだが、どうやら伊賀流忍者博物館が所蔵している「忍術奥義傳巻」には甲賀の人らしい記載が残っている。

 

多胡弥(たこや)

大海人皇子(おおあまのみこ)後の天武天皇に仕えた忍者で、奈良県が出身地ではないかと言われている。
西暦672年、大海人皇子と大友皇子(おおとものみこ)の皇位継承を争いが勃発する。

壬申の乱である。

その時、大海人皇子は来日していた中国人に戦略指南を求めると、中国人は偵察の重要性を指南したとの事。

偵察となれば忍者の出番なのである。

そこで活躍したのが多胡弥だったそうな。

多胡弥は偵察のみならず、敵の攪乱、奇襲などでも活躍し、大海人皇子の勝利に大きく貢献した人物なのである。

 

源義経(みなもとのよしつね)

え!ここに義経を出すの?
江戸時代に福井県の越前藩で義経を流祖とした義経流忍術があり、「義経流忍術伝書」という忍術書が伝えられているらしいのです。

たぶん後付けの流派なのでしょうけど。

一ノ谷の戦いでは人馬も通れないほどの険阻な鵯越で敵の裏を突き、壇ノ浦の戦いでは「八艘飛び」で敵から身を守ったという数々の卓越した身体能力ぶりが伝説として残っている。

また、義経が鞍馬山中で天狗から武術を教わったという話は有名ですが、義経に兵法の奥義を伝えたのは陰陽師である鬼一法眼という伝説もあり、何かと謎めいたヒーローなので忍者伝説も浮上するのでしょうね。

 

伊勢三郎義盛(いせさぶろうよしもり)

 源義経の副将であった伊勢三郎義盛。

どうやらこの伊勢三郎義盛が忍術の大成者だという声があるようだ。

そもそもは伊賀出身で山賊の頭だった伊勢三郎義盛。

どうやら忍術書に彼が詠んだ「義盛百首」というものが収録されているらしい。
義盛が忍術の極意を歌にしてものだという。

「忍びには 習いの道は多けれど 先づ第一は 人に近づけ」

そんな歌が詠まれている。

 

楠木正成(くすのきまさしげ)

太平記で有名な楠木正成もまた忍者だった説がある人物。

楠流忍術を興し、変装した正成自身が諜報活動を行ったというにわかに信じられない話。

1676年に伊賀で書かれた忍術書「万川集海」には楠木正成が48人の忍者を従えていたことやその極意を1巻にまとめていたことが記されている。

 

風魔小太郎(ふうまこたろう)

小田原北条氏に使えていた忍者集団で「乱波(らっぱ)」と言われる集団の頭目。

夜襲などの攪乱が主な任務であったため、夜でも目が利く特殊な訓練をしていたといわれる。
夜中に敵陣営に忍び込み、火を放つ、馬を放つなどの攪乱を起こし、縦横無尽に走り回る風魔党。
敵か味方か分からない状況に陥った敵陣では同士討ちが絶えなかったそうな。

 

加藤段蔵(かとうだんぞう)

「鳶加藤」やら「飛び加藤」などどと記される忍者、加藤段蔵。

忍術の流派は定かでなく、一匹狼の忍者だったらしい。

段蔵は自分の忍術を売り込むべく上杉謙信が統一する越後の国を訪れ、城下町で牛を丸のみするなどという幻術を披露。

 

様々な段蔵による幻術はうわさとなり、上杉謙信の耳にも届いた。
そこで謙信は段蔵を呼び出し、重臣である直江山城守の屋敷に潜入し、名刀を盗んで見せよと腕試しを命じた。

直江山城守の屋敷では段蔵から名刀を奪われまいと警備を強化。

村雨という番犬まで備えたのではあるが、段蔵は番犬を毒殺、名刀を奪っただけでなく、召使いの少女を眠らせたまま連れ帰った。

 

謙信はこの段蔵の力に恐ろしさを感じ、家臣に段蔵の打ち取りを命じ、段蔵は越後を追われるようになった。

段蔵は次に武田信玄側に奉公を乞うものの、以前に忍びの者に秘宝を奪われた経験から武田信玄もまた段蔵を打ち取りと家来に命じて、段蔵を討たせたのだそうな。

 

熊若(くまわか)

山梨県の透波(すっぱ)と言われる忍者集団の忍者。

武田信玄が用いた忍者集団が透波(すっぱ)である。

すっぱ抜くという言葉があるが、その語源がこの透波(すっぱ)であるらしい。

刀をすっぱ抜くとか人の意表を突くとか隠し事を暴くとか、そのような意味で使われる言葉の語源が忍者だったとは。

 

武田信玄の重臣である飯富虎昌(おぶとらまさ)は川中島の戦いに向かう際、軍旗を忘れてきたことに気づき、熊若に軍旗を取り戻るよう命じた。

熊若は往復25㎞を4時間で走り抜け、軍旗を持って戻って来たという。

また、武田信玄が秘蔵していた「古今和歌集」を盗難した容疑が熊若にかかった際、本当の犯人は加藤段蔵であるとして、段蔵をひっ捕らえ、身の潔白を証明したとの事。

 

望月千代女(もちづきちよじょ)

武田信玄の甥である望月遠江守信雅(もちづきとおとうみのかみのぶまさ)の妻。

歩き巫女といわれる特定の神社に属さないで、旅をしながら祈祷を行う巫女を従えていたくノ一だったと言われているらしい。

歩き巫女は仮の姿で、実は全国を旅する諜報部員として活躍し、望月千代子の元に集まった諸国の武将の情報は武田信玄へと伝えられていたそうな。

 

楯岡道順(たておかどうじゅん)

伊賀流の忍術の名人11人の一人として記されている人物。

近江の大名である六角義賢(ろっかくよしたか)より近江沢山城の攻略を命じられた楯岡道順は伊賀忍者48人を従えて沢山城へと向かった。

伊賀忍者たちは「妖者という術」いわゆる変装をして城内に潜入、火を放ち、攪乱した城内に六角義賢軍がなだれ込み、その日のうちに落城させたそうな。

 

城戸弥左衛門(きどやざえもん)

前述の楯岡道順同様、伊賀流忍術の名人として記されている人物。

主に鉄砲による狙撃を得意としていたそうな。

あるものより信長暗殺の命を受け、2度ほど信長の狙撃をしているがどちらも失敗に終わる。狙撃の翌日には何と菓子を持って信長に拝謁し、その時に昨日の狙撃の犯人が誰なのか捜査するよう命じられたのだとか。

信長が犯人が城戸弥左衛門と知っていて命じたのか。
それともなんの疑いもなく命じたのかどちらだろうか。

 

その後、城戸弥左衛門の手下の密告によって信長に真相を知られ厳しい拷問に合うものの、信長暗殺を命じた依頼主の名を明かすことはなかったという。

 

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)

松平氏に仕えた伊賀を代表する忍者一族の名門である服部。

服部半三保長は松平清康・松平広忠・徳川家康の三代に仕えた人物。

三大忍術秘伝書と言われる「忍秘伝」という書物も執筆した人物との事。

 

藤林長門(ふじばやしながと)

伊賀忍者に総司令官役の人物が3人いる。
服部と百地と藤林である。

藤林長門は北伊賀を統治する忍者としてその名が刻まれている。

先述した楯岡道順と48名の忍びを六角義賢の命で近江沢山城へと派遣したのはこの藤林長門であり、楯岡道順は藤林長門のいわゆる部下である。

藤林長門は「人の知ることなくして巧者なるを上忍とするなり」とあるように自身が束ねる忍びの衆を自在に動かすことで、自らの名を隠す人物であったそうな。

 

百地丹波(ももちたんば)

石川五右衛門の伊賀流忍法の師は百地三太夫と伝えられている。

実在する人物かどうかは謎ではあるが、百地家は伊賀に存在するのである。

百地は南伊賀を統一する忍者であり、百地丹波は織田信長の次男である信勝との戦いで自身の忍者衆を束ね、2度も信勝を打ち負かしているのである。

その後、織田信長は伊賀を平定すべく5万の兵で伊賀に攻め込み、伊賀忍者は籠城の末、無条件降伏をしたとの事。

 

山田八右衛門(やまだはちえもん)

伊賀忍者の名手として記されている人物。

複数の忍者が同じ身なり格好をして敵を欺く双忍術という忍術を得意としていたそうな。

ある日友人から「指定した日時に腰に差している刀を奪ってみよ」という力試しを受ける。

山田八右衛門はこの挑戦に対して、同じ年格好をしている忍者に山田八右衛門と同じ服装をさせて、遠目で目立つ行動をとらせた。

それを見た友人は山田八右衛門はこのチャレンジを諦めたものだと思い込み油断した野もつかの間、周囲の者から腰の刀がない事を指摘され、してやられたと思ったのだそうな。

山田八右衛門は刀を捕られたことを相手に気付かせないほど巧妙に奪ったのであった。

 

服部半蔵(はっとりはんぞう)

半蔵門の名で有名な服部半蔵正成。
前述した服部半三保長の五男である。

徳川家康が天下取りの際に伊賀忍者を重宝し、当時16歳だった服部半蔵も伊賀忍者を60名~70名ほどを率いて戦いに貢献した。

 

浅井治部左衛門(あさいじぶざえもん)

 織田信長の妹であるお市の方の命を救ったと言われる人物。

浅井長政の一族である浅井治部左衛門は越前北ノ庄城落城の際、配下の忍者とともに浅井家に嫁いでいたお市の方の替え玉を仕立て、自害したかように見せかけたという説がある。生き延びたお市の方はその後、浅井治部左衛門と共に各地を放浪し、伊賀で病死したという。

浅井治部左衛門の子孫には病死したお市の方の喉仏が保存されているらしい。

 

杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)

杉谷善住坊は甲賀随一の鉄砲の名手として後世に伝えられている。

楯岡道順や城戸弥左衛門と共に織田信長の狙撃を命じられた一人。

狙撃は失敗に終わり、その後信長側に捕らえられ、過酷な死を遂げている。

 

諸澄九左衛門(もろずみきゅうざえもん)

近江甲賀の忍者であった諸澄九左衛門。

前述の杉谷善住坊の実兄なのだとか。

杉谷善住坊が織田信長の狙撃に失敗したことでその捜索は一族にまで及び身を隠すことになる。

その後、本能寺の変で混乱状況になると諸澄九左衛門は手下と共に京都田辺市で落ち武者狩りをしていた際、とある武将を仕留める事に。

その武将、武田信玄から密命を受け、多額の資金を隠した場所を記したメモを持っていたという。

諸澄九左衛門はそのメモを頼りに資金の一部を見つけて掘り当てたらしい。

 

伴太郎左衛門(ばんたろうざえもん)

信長と家康に従事していたという甲賀忍者。
家康がまだ21歳の時、元康という名の頃。

信長と手を組み三河の今川方の城を攻めた際に伴太郎左衛門が率いる甲賀忍者80人が城に忍び込み、火を放ち、裏切り者ありと騒ぎ立て、敵を攪乱し落城させた。
その後織田信長にも仕え、本能寺の変では寺の厩で死去した者中に伴太郎左衛門の名が記されていたという。

 

 

とりあえずまだまだ実在する忍者や忍者ではないのと言われる人物はいるけれども今日はこれまで、また徐々に追加したいと思います。

実はまだ16名もの忍者候補がいるのですがなかなか書ききれない。