暮らしの顛末(くまくまコアラ)

40代サラリーマン、Canon EOS7D markⅡを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。

日本の写真の開祖、幕末の写真師「上野彦馬」は今でいうインバウンド商売の開祖でもあるのだと思う

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日本人なら知らない人はいないであろう坂本龍馬のポートレート写真。

このポートレートを撮影したのが上野彦馬である。

幕末の写真師、鵜飼 玉川(うかい ぎょくせん)、下岡 蓮杖(しもおか れんじょう)、上野彦馬(うえのひこま)、この3名が日本の写真の開祖と言われている。

 

 

1862年に長崎で写真師を開業した上野彦馬

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1862年、この年に2人の写真師が開業をした。
横浜で下岡蓮杖が開業、そして長崎で上野撮影局を開業した上野彦馬。
上野撮影局で撮影をすることは長崎訪問の記念として一種のステータスのようだったようだ。

歴史上の著名な人物や長崎ゆかりの軍人、財界人など数々の大御所を撮影して写真の腕を磨いていった。
ポートレートを撮影する際の構図や集合写真での人物の配置、目線の位置などを工夫し撮影をしていたとの事。
その人物配置のバランスの妙は非常に定評があったらしい。

 

 外国人を顧客として成功していった上野彦馬

 長崎に多くの外国船が訪れる場所。
上野撮影局は貿易で訪れる外国船や港を訪れる戦艦の乗組員を顧客にして繁盛をしていった。


その面白いエピソードがある。

 

長崎を訪れた英国軍中将が、人力車に乗ったところ、人力車の車夫がとある有名な写真家の元に人力車を走らせようとした。

「外国人が誰しも写真を撮りたがっているわけではない」と車夫に説明するのだが、車夫は当然、上野撮影局に行くものだと思って英国軍中将が拒んでいる事を理解できず、なにがなんでも上野撮影局に向かうという。


それほど、人力車の車夫達は、外国人を乗せたらまずは上野撮影局に向かうのが当然となっていたのだろう。

 

もし、上野彦馬が人力車の車夫にマージンを渡して、上野撮影局へ運ぶような契約をしていたのなら、かなりのビジネスセンスだ。

もしかしてそのようなことをしていたのかも知れない。
そう思えるほど、彼のビジネスは後に世界に支局を持つほど広がっていく。

明治5年、上野彦馬が撮影した日本の風景写真は芸術として長崎を訪れる外国人が購入していったらしい。

 

万博で世界に認められた上野彦馬

明治5年、ウィーンで行われた万国博覧会にて、日本の展示品として、長崎の景観を撮影した写真の展示に成功、上野撮影局は世界に向けて宣伝を仕掛けた。
その後、明治22年にロシアのウラジオストックに初の海外支店を開店。
明治24年には上海と香港に支店を開設。


そして、明治26年シカゴで行われた万国博覧会で「趣味の良さと芸術的な仕上げ」としてメダルを受賞している。

 

日本の写真技術が世界で認められたわけだ。

 

明治20年代の上野彦馬の写真撮影代はいかほどだったのか。

上野彦馬の写真代を調べてみると、明治20年代で名刺判が1円。
キャビネ判が2円。
四つ切りが5円だったとの事。

当時米が5㎏で20銭。
現代の価格として米5㎏を2,500円だとすると・・・

今の物価に換算すると名刺判で12,500円。
キャビネ判で25,000円。
四つ切りだと62,500円となる。

やはり当時としては高価なものなのだったと思う。

 

まとめ

上野彦馬が写真に興味を持ち始めた頃。
薬品の製造から始める必要があったのだとか。
その後、長崎には写真の技術を持った外国人が訪れるようになり、写真の実技を学ぶ機会が増えるとともに、上野彦馬の写真の技術はみるみる向上したとの事。

上野彦馬の元には全国から写真技術を学ぶために入門をする人が集い、上野彦馬の指導の下、第二世代と言われる数々の写真家を輩出することになる。

彼が日本写真の開祖と言われるのは彼の残した功績と、弟子の育成に貢献し、日本に写真の技術を広めたことが評価されているのである。