京都嵐山の渡月橋あたりから府道29号線を北へと約2㎞ほど進むと京都嵯峨野と言われる地区。
愛宕山の麓、緑が豊かで今なお平安時代の面影が残る美観地区。
平安時代、嵯峨野は多くの貴族たちが別荘を建てて過ごした場所。
そんな嵯峨野を愛した平安貴族の中に天皇もいました。
この地の由来ともなる嵯峨天皇。
嵯峨天皇がこの地に別邸を建てたのが離宮嵯峨院。
現在の大覚寺(旧嵯峨御所)です。
京都でも屈指の観光スポットである嵐山渡月橋にも近く、非常に美しい場所なのだが観光客はそれほど多くなく、平安時代のロマンを感じる京都でもおすすめの観光スポット。
- 大覚寺の門をくぐる
- 【見どころその1】村雨の廊下
- 【見どころその2】南北朝講和会議が行われたという正寝殿
- 【見どころその3】宸殿(しんでん)の襖絵
- 【見どころその4】御影堂(心経前殿)
- 【見どころその他】大沢池とか霊明殿とか五大堂(本殿)とか
- まとめ
大覚寺の門をくぐる
大覚寺前の観光駐車場。
時刻は土曜日の午前9時30分。
30台~40台ほどの車が停められそうだが、半分も埋まってない感じ。
休日で天気もいいのに結構ガラガラな印象。
駐車料金は1日500円。
駐車料金が高い京都でありながら意外にリーズナブル。
結婚記念写真を撮るのだろう。
大覚寺の前で新郎・新婦と遭遇。
幸せのおすそ分けをいただいたようで、何だか今日は良いことありそう。
これほど人が写り込まない京都の観光スポットも珍しいと思いません?
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。
当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876年)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治2年(1307年)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するととに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392年)当寺で南北両朝の講和が成立した。
宸殿(しんでん)は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移設したもので、内部は狩野山楽筆の「牡丹図」「紅白梅図」などの豪かな襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。
なるほど、南北朝時代の皇位継承で大覚寺統やら持明院統たらで揉めたあの大覚寺統の大本山なのか。
また南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の南朝和解が成立したのもこの寺だったのか。
大覚寺・祇王寺の共通券が600円。
大覚寺を訪ねたら祇王寺も合わせてお参りするのがベスト。
【見どころその1】村雨の廊下
数あるお堂を結ぶ回廊は村雨の廊下と呼ばれている。
縦の柱を雨、直角に曲がった回廊を稲光にたとえられているのだとか。
刀や槍を振り回せないよう、天井は低く造られ、床は鴬張り。
雨のように注ぐ柱の間から覗く新緑の光が印象的。
何度も言うが、人が全然写り込まないほど観光客が少ない。
【見どころその2】南北朝講和会議が行われたという正寝殿
参拝料は払って建物内に入ると松の間。
こちらは後宇多天皇が使用していた御輿。
とされているが後に復元された可能性もあるのだとか。
御輿には珍しい菊の紋が・・・
九曜菊紋というなのだとか・・・
後宇多天皇所有の紋との事。
松の間の襖絵は狩野永徳によって描かれた「松に山鳥図」。
狩野永徳は唐獅子図が有名ですよね。
回廊を進んで左手にあるのが正寝殿。
畳敷きの内廊下があり、南北に12の部屋が設けられている。
内廊下には狩野派の障壁画がある。
これはなんの木を描いたものなのだろうか?
特に説明はなかった。
各部屋は障壁画にちなんで「鷹の間」「雪の間」というような名前がつけられている。
これらの障壁画は狩野山楽や渡辺始興筆。
こちらが後宇多法皇が執務を行った部屋。
執務の際には御冠を傍らへ置いたことから「御冠の間」と呼ばれている。
こちらの内廊下には兎の絵が描かれている。
【見どころその3】宸殿(しんでん)の襖絵
先ほどの正寝殿に向かい合うように建っているのが宸殿(しんでん)。
宸殿(しんでん)には狩野山楽による「紅白梅図」の他に「松図」「牡丹図」などの襖絵があり、現物ではないにせよ安土桃山の豪華絢爛な世界観が体験できる。
当時は今以上にまばゆいものであったろう。
江戸時代の初め、延宝年間(1672年~1681年)に後水尾天皇より皇后東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)徳川二代目将軍秀忠の娘が使用していた女御御所の宸殿を賜ったものです。入口の格子戸は蔀(しとみ)といいその留金部分には蝉の装飾があります。
また、部屋は五つに分かれ正面牡丹の間は格式が高く、天井は折上小組格天井になっております。
襖絵は狩野山楽によって描かれた牡丹・紅白梅・松・鶴等があり桃山美術の代表的な作品です。
前面の庭には一面に白川砂が敷かれ大海を表しており正面の「右近の橘」「左近の梅」が旧御所の名残りをとどめています。
なぬ、蝉のあしらいがあるとな。
どこだろう。
探してみると・・・
あったあった。
内側に蝉の装飾が・・・
こりゃ細かな細工がされているもんだ。
【見どころその4】御影堂(心経前殿)
御影堂(心経前殿)は大正天皇のご即位の際に建てられた饗宴殿を式後賜り移築したもの。
中には撮影禁止。
嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像が安置されています。
なぜ、心経前殿というのか・・・
こちらは心経殿。
心経殿の中には嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の般若心経の御写経が収められ薬師如来立像が奉伺されている。
大正14年(1925年)に法隆寺の夢殿を模して造られたのだそう。
この心経殿を拝むために先ほどの御影堂(心経前殿)がある。
それにしても、御影堂から心経殿へと繋がっているこの襷のようなものはどのような意味があるのだろうか。
【見どころその他】大沢池とか霊明殿とか五大堂(本殿)とか
今日は月初め。
本堂にて別当様の法話が行われるもよう。
回廊を本堂へと向かわれる。
五大堂(本堂)にてまつられているのは五大明王像(金剛夜叉明王、降三世明王、不動明王、軍荼利明王、大威徳明王)。
平安時代に造られた五大明王像は重要文化財として霊宝館内にて安置されており、現在本堂にてお参りの出来る五大明王像は、京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳作のもの。
当時の物ではないとはいえ、まだ木肌も美しく初々しくもありつつ、清らかで豪快なお姿を見ることが出来る。
平安当時はこのような見え方であったのだろう。
そんな想いを抱きながら拝む。
様々な天皇の写経が祀られているお寺であることから、このお寺は写経で有名。
別当様の法話が終わった後、本堂にて写経をしている人が沢山いた。
五大堂(本堂)の東側には大沢池が広がっている。
水面に映る東山連峰が美しい撮影スポットだが、なかなかこれぞというアングルが見つからなかった。
庭湖ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています。
池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせいかなおか)が配置したといわれる庭湖石があります。
この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています。
遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前の山は朝原山(遍照寺山)です。
この観月台からの仲秋の名月は有名で松尾芭蕉の名月や池をめぐりて夜もすがら
と句にも詠まれています。
また左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれの名古曽の滝の石組み跡があります。
また平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています。
こちらは霊明殿からの眺め。
霊明殿は二・二六事件で暗殺された第30代内閣総理大臣斎藤実が昭和恐慌の際に国民の自力更生を願って東京沼袋に建てた日仏寺を昭和33年(1958年)にこちらに移築されたもの。
そんなエピソードも歴史の面白いところです。
ここには阿弥陀如来、草繋門跡が本尊として祀られている。
まとめ
写真をご覧の通り、これが休日の京都かと疑うほど、人が写っていません。
朝一番という事もあるのでしょうけど・・・
歴史的なエピソードも多く、平安貴族の佇まい、桃山時代の絢爛豪華な襖絵など
見どころが多い大覚寺。
嵐山は観光客でいっぱいですが、わずか2㎞しか離れていないこの場所はほとんど観光客がいない。
なんだかもったいないなぁ~。
というのも大覚寺と拝観兼が共通で、苔で有名な祇王寺には修学旅行の学生が頻繁に訪れているのに、大覚寺では見受けなかった。
まぁフォトジェニックな場所として祇王寺は人気があるからね。
でも修学旅行の学生こそこの大覚寺を訪れてほしい。
するともっと歴史に興味が沸くのではないだろうか。
そんなきっかけにもってこいの場所なのだと思う。
嵐山に観光に来た際はぜひ大覚寺へも。
そんな想いから少々熱量を込めて書いてみました。
ではでは。