大覚寺から祇王寺へと向かう
大覚寺の観光駐車場に車を停めて、祇王寺へと向かう。
駐車場からは歩いて約20程度なのだという。
目の前の山は嵐山北松尾山かな。
しばらく嵯峨野道を歩くと京都府道50号京都日吉美山線。
この道を北に進むと嵯峨の古い町並みが並ぶ愛宕街道。
無電柱の景観美観地区がある。
見えてきた祇王寺の道標。
古風な通りなのにラーメン屋の赤いちょうちん。
茶屋ならそれっぽいのだが・・・
ラーメン屋とは意外。
さて、こちらが祇王寺の門前とでも言えばいいのかな。
門もないし、祇王寺には実はお寺もないのですけどね。
往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。
寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺とよばれるようになったと伝えられている。
平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前(ほとけごぜん)の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女(ぎにょ)と共に出家し、当地に移り住んだ。後には、仏御前(ほとけごぜん)も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
現在の本堂は、明治28年(1895年)に再建されたもので、堂内には本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。
境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筺印塔及び平清盛の供養塔などがある。
とまぁざっくりと説明がなされているが、平家物語のエピソードは後に簡単に書いておいた。
静かな祇王寺で苔を楽しむ
緑で覆われた細い石階段を上がると祇王寺の苔庭がある。
陽の光のない苔も静かで美しいのだが・・・
しばらく陽が差すのを待つ。
やはり陽が差した方が陰影が出来て面白い。
正直言って苔庭はそれほど広い場所ではない。
100坪程度ではないだろうか。
そのスケール感だからこそ、まじまじとこの苔の空間が浮かび上がってくるのであろう。
また、密集する楓の隙間から降り注ぐ細かな陽光が美しい。
まるで清らかな水の底を漂っているみたいだった。
見上げれば覆いかぶさるほどの楓と竹林。
なんと美しい。
祇王と仏御前のお心を察してこの世から隠すようにひっそりと木々たちが成長をしていたのではなかろうか。
そんなロマンチックな事を思うほど美しい。
自然の中にもなんだか京都らしい侘びさびを感じる。
こちらが祇王、祇女、母刀自の墓と平清盛の供養塔。
まさに緑の絨毯。
苔の流れが出来ている。
小さいお寺なのでそれほど時間をかけて拝観する場所ではありません。
早ければ5分も掛からない。
訪ねる時期によっては残念な観光地にもなりえるかも知れない。
だが、新緑シーズンで天候に恵まれた日は極上の小さな森が目の前に広がる。
だからこそ評価が分けれる祇王寺なのだと思う。
でも苔だけじゃないからね。
平家物語のゆかりの地でもあるから。
平家物語の祇王寺のエピソードを簡単に
その昔、祇王(ぎおう)と祇女(ぎにょ)という姉妹がいたそうな。
姉妹は白拍子と呼ばれる平安時代の歌舞の腕前が良く、都中で有名な遊女でありました。
平清盛は姉の祇王(ぎおう)を溺愛し、姉妹のために屋敷を建てて、お金に不自由のない生活をさせていました。
遊女から一躍、貴族へと成功をした祇王に対し、世間ではあこがれる者ややっかむ者などがいたそうです。
しばらく時がたち、都では別の白拍子の名手がもてはやされるようになりました。
その名は仏御前(ほとけごぜん)当時16歳でした。
仏御前は平清盛公に可愛がってもらえないことが心残りだとして、自ら清盛の屋敷まで赴きます。
ですが清盛は興味がないらしく、呼んだ覚えはないと門前払いをします。
それを見ていた祇王、仏御前があまりにもかわいそうなので、清盛にせめて一目だけでもと懇願します。
祇王に頼まれた清盛。
では少しだけとしぶしぶ仏御前を屋敷に入れることにしました。
時間がないから歌だけでも歌ってみよと命じたところ。
清盛は仏御前を気に入ってしまったのです。
仏御前は祇王の計らいで召し使われた身。
自分が祇王以上に溺愛されるのが心苦しい。
清盛は祇王がいるから仏御前は遠慮をするのだと、祇王をかまわなくなりました。
祇王を潔く身支度を整え屋敷を出ていきました。
その際に襖に一首書き残します。
萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはで果つべき
実家に帰った祇王は外にも出ずに泣き続けました。
一方、清盛の屋敷では祇王が去った事に仏御前が落胆します。
清盛は落胆した仏御前を慰めるため、祇王を呼びつける使いを出しましたが、
祇王は二度と屋敷へは行かないと決めて返事を返すことはありませんでした。
清盛の催促は続きます。
祇王の母である刀自(とじ)は清盛様の命令に背くとはただ事では済まされまいと祇王を説得します。
母親の頼みにしかたなく屋敷へと参上した祇王。
みじめにも一番位の低い部屋へと通されます。
それを見ていた仏御前は祇王の不憫さに嘆きます。
清盛は祇王に歌を歌う事を命じ、祇王は涙をこらえて歌います。
仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
何れも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
これがなかなかの良い出来栄えだったので清盛は召し使う事は出来ないが、いつでも通って仏御前を慰めろという。
実家に戻った祇王はあまりにもみじめで自殺をしようとする。
それに妹の祇女も同意し、一緒に自殺をしようと・・・
それには母刀自が説得を自殺をとどめるように。
しかしながら都で暮らしているとまたみじめな目に合うだろう。
祇王21歳、祇女19歳、母親刀自45歳。
そろって剃髪し、嵯峨の山里深くで庵を建てて仏の道へとなったのです。
日が経ち、庵で暮らしている3人の戸を叩くものがありました。
仏御前です。
仏御前は祇王の恩情で召し使えられた身でありながら
祇王以上に愛されたことが恥ずかしくてたまりませんでした。
また、この栄華はいつまでも続くものではないとむなしく思う日々だったのです。
仏御前もまた仏道に進むことを望んでました。
剃髪し、屋敷を抜け出してみたのだそうな。
そうして4人一緒にこの地で念仏を唱えるようになったのだとか。
なぜ大覚寺と祇王寺は離れているのに共通券なのか?
大覚寺と祇王寺は徒歩20分と離れているのになぜ共通券なの?って疑問に思った。
どうやら祇王寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったとのこと。
残されていた墓や仏像は大覚寺によって保管されたそうな。
大覚寺は祇王寺の廃寺を惜しんでいた際、元京都府知事の北垣国道氏が祇王の話を聞いて、明治27年、嵯峨にあった自分の別荘を一棟寄付をしたのだとか。
それが現在、祇王寺に建っている建物であり、その後、祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院として、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院となっているとの事。
だから、離れていても共通券となるんですね。
なるほど、すっきりした。
ではでは。