暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

明治38年に大阪で起こった大事件、堀江六人斬り事件で両手を失った日本画家、大石順教尼を知る。

明治38年6月20日の夜、大阪の堀江で大事件が起きた。
大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」の楼主「中川萬次郎」は店の抱え芸者に手をつけるほどの無類の女好きであったそうな。

内縁の妻の姪「あい」を養女としてもらいうけ、強姦同様にして正式の妻にする。
「あい」が自分に心を開かないことにが気に入らなかった「中川満次郎」。

自分の言うことをきかせるために暴力をふるい、「あい」に詫び状を書くことを迫る。
「あい」は詫び状を書いた後、「山梅楼」から失踪。
ある男とを駆け落ちをした。

怒った「中川満次郎」。
「あい」を探すも、人々は知らぬ存ぜぬの一点張り。
自分の周りの人間は全員グルになっている。
そう考えた「中川満次郎」は日に日に恨みを募らせていく。

事件の数日前、「中川満次郎」は馴染みの客に「今日は日頃の目的を達することに決心したので皆を招いたのだ」と意味深な発言をしていたらしい。

そして6月19日。
梅雨時の長雨で気分がさえないから、家族でおおいに散財しようではないか。
そういって、西洋料理や日本料理などを注文し、家族に振舞って大宴会。

宴会は夜半3時ごろまで続き、家族が寝静まった明け方4時ごろ。

「中川満次郎」は起き上がりタンスから刃渡り一尺八寸の日本刀を取り出し、家族殺傷を決意。


隣の部屋の襖を開け、寝ている義母「こま」の上に跨り右後頭部に向かって躊躇わず一太刀。
「キャッ」と叫ぶ「こま」にもう一太刀。
叫び声に飛び起きた「すみ」に対しても頭を斬りつけ胸部を袈裟掛けに浴びせ斬り。
二人は死骸となって転がった。

二人を殺害した萬次郎は更に狂気し2階へ上がる。
表座敷で寝ている「安次郎」の首を斬りつけ、「ウンウン」と唸り出したので首を斬り落とす。
「安次郎」の隣で寝ていた「妻吉」はビックリして目を覚まし叫び声を挙げるや「中川満次郎」は「妻吉」の左腕を一刀で斬り落とし、続いて右腕も深く斬り込んだ。「人殺し」と絶叫する「妻吉」の口内に血刀を付き込み、「よくも、わいの悪口をしゃべりおったな」と舌を切り裂き顎を削いた。
「妻吉」はその場に倒れこんだ。

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で、この「中川満次郎」に腕を切られた「妻吉」が、後の日本画家、大石順教尼なのである。

養女となった義理の父に両腕を切られるとはなんとも壮絶な人生。

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「妻吉」は両手を失った後も芸事に励み、双手無き芸妓妓として寄席の高座に立ち、客入りは盛況だったとのこと。

その後、旅芸人として全国を巡っていた際に、カナリアがヒナに口移しで餌を運ぶ姿を見て、口筆を思いつき、独学で書画を始め、寄席の舞台から惜しまれながら引退。

その後、1931年に妻吉自叙伝・堀江物語を出版。
映画化されて、全国的な大反響となる。
当時、障がい者の福祉がない時代であったため、障がい者福祉に尽力し、様々な相談を受ける一方、法の道へも熱心に。
高野山山本王院にて写経を納め得度、法名を大石順教と改める。
そして、1936年、身体障がい者福祉施設相談所を設立。
1937年、当時日本を訪れていたヘレンケラーと対談。
口書般若心経が日展書道部に入選し、日本画家として活躍。

と様々な苦難を乗り越えて障がい者支援、日本画家、仏教と幅広く活躍した人物なのである。

で、私はこの人物の存在を知らなった。

大石順教尼記念館

先日、真田幸村ゆかりの地、和歌山県九度山町を訪れた際、現地の観光案内で知った大石順教尼記念館。

大石順教尼って誰?
ってことで訪れてみると、丁寧に現地の方が記念館の中を案内してくれた。
口書般若心経の実物はじめ、様々な大石順教尼に日本画が展示されていて、こりゃ新たな知識を得たわと大変満足だったのだ。
この屋敷には欄間があり、その欄間が隠れ六文銭となっている。
屋敷の中を撮影をしてもよいかと尋ねると・・・
現地の案内の人撮影を見てなかったことにするから・・・
って言ったいたので公開は控えておく。

ってこんなことを書くとまずいかな・・・

ってことで今日はこれまで。
ではでは。