霞む信貴の山
朝起きてベランダから山を眺めると、いい感じで霞がかかっている。
こりゃきっと信貴山頂は幻想的な光景なんだろうなぁ。
ってことで、信貴山 朝護孫子寺へ。
やはり色づいた紅葉の山並みに幻想的な霞がかかり美しい。
大門ダムから信貴大橋、開運橋を見上げる。
霞の中に色づくイチョウの葉が目に鮮やかだわ。
台風が来なかったので、葉が多く残っているのと、気温が下がった日が分かりやすかったこともあり、木が一斉に冬支度を始めたため、今年の紅葉は例年になく見事だといわれている。
雨上がり、目立ったのは朝露をまとった蜘蛛の巣。
信貴山観光ホテル。
あまりに家から近すぎて一度も泊まったことがないのだが・・・
マイクロツーリズムでGo to キャンペーンもあるし、地元でも宿泊してみようって人もいるのかもしれない。
さて、開運橋を渡って信貴山朝護孫子寺へ。
この橋から飛び込む関西唯一のバンジージャンプ。
開運バンジーというのがある。
約30mで10,000円とのこと。
朝9時過ぎなのだが、もうすでに一人飛び込むようだ。
この開運橋は登録有形文化財。
戦前の上路カンチレバー橋はほとんど残ってないく、現存する橋はこの開運橋が最古の物。
ってカンチレバーって何よ。
カンチレバーとは片持ち梁のことで、両端の梁の一方は固定され、もう一方は可動することが出来る構造とな。
なんかわかったような、わからないような。
信貴山 朝護孫子寺
さて、信貴山 朝護孫子寺といえば張り子のトラ。
今日もビュンビュン首が回っております。
ウソつけ!
そんなビュンビュンってほどではなきです。
朝護孫子寺内には大きなイチョウの木が1本あり、これがすこぶる映える。
こりゃ見事だわ。
遠くに見える奈良の市街はまるで雲海のよう。
さて、見晴らしの良い本堂へと。
おお~!
こりゃ幻想的だわ。
日はだいぶ登ったけど、今日の霞はなかなか晴れないみたい。
向かいの山の紅葉も美しい。
さらなる絶景を求めて空鉢護法堂へ
さて、まだまだ霞は晴れないようなので、さらなる絶景を求めて、朝護孫子寺の山の上にある空鉢護法堂へと向かう。
これが結構登るんだわ。
ようやく山頂に到着。
空鉢護法堂は一願成就必是の神社。
で、ここからの眺めが・・・
おお~霞んどる。
霞んどるよ~。
ほんと素晴らしい眺めだわ。
さらに松永屋敷跡、信貴山城跡へ
さて、せっかくここまで登って来たのだから、続いて松永屋敷跡と信貴山城跡へと向かう。
けっこう急な下り坂だわ。
濡れた落ち葉で覆われていいるし、なんか足滑らせそうだわ。
ん、何か見えてきた。
あれか?
立入屋敷跡?だって。
どうやら信貴山城主である松永氏の政治の実務を担った家臣団の一人、立入勘助(たていりかんすけ)の屋敷があった場所なんですって。
なんか分かりにくい道案内。
またも急な下り坂。
帰りはこの坂を登らなければならない。
今日は山の中に入るつもりはなかったんだけどな。
あ、あれかな。
あったわw。
ここが松永屋敷跡と信貴山城跡。
正直、ここまできれいに管理されていたと思わなかったわ。
でも全然人の気配がない。
ここでは人と出会うよりもイノシシに出会う確率の方が高そうな。
鳥の声も少ない。
いやいや完全にボッチの世界だな。
信貴山城とは、奈良県では最大級の規模をもつ中世城郭。
築城者は楠木正成とする説もあったりするが・・・
それは朝護孫子寺に正成のサインが墨書きされた軍旗が奉納され、今も現存するからとのこと。
とはいえ、当時は城と呼べるようなものではなく、砦のようなものと考えられている。
この場所に信貴山城を築いたのは1536年(天文5年)木沢長政が築城。
しかし、三好氏・細川氏らと戦いで長政は敗死。
信貴山城は炎上の上、落城。
その17年後、1559年(永禄2年)に松永久秀が築城し、大和支配の拠点として信貴山城は利用された。
久秀は織田信長が15代将軍 足利義昭を奉じて上洛するといち早く信長の配下に入り、その後ろ盾を得て大和攻略を進めることに。
この時、信長に差し出したのが「九十九茄子(つくもなす)という大名物茶器だったそうな。
久秀はこの九十九茄子を1億円という大金で買い求めたらしい。
その後、久秀は信長を助けることに・・・
1570年(元亀元年)、信長は越前の朝倉義景討伐に向かうものの、義弟・浅野長政の謀反により窮地に陥る。
その際、久秀が北近江の土豪・朽木元網を説得し、退路を確保、無事に信長を京都へと退却させることに成功。
ところが翌2年、筒井順慶らと戦った辰市合戦で久秀は大敗。
形勢は一気に逆転し勢力は急速に衰える。
久秀は、将軍義明の企てた「信長包囲網」に加わり、甲斐の武田信玄が上洛を開始すると、信長に背くことに。
しかし、1573年(天正元年)に信玄が陣中で病没、義昭も信長によって京都から追放され、望みを失った久秀は奈良市に築城した多聞山城を信長に差し出して降伏。
1577年、信長の石山本本願寺(大阪城付近)攻めに出陣中だった久秀は、突然戦線を離脱し信貴山城に籠城。
信長は、息子の信忠を総大将として信貴山城攻めを行う。
久秀はさして反撃も出来ずに、信貴山城は織田勢の大群に包囲されることに。
自身の最後を悟った久秀は、かねてから信長が望んでいた名物茶器・平蜘蛛茶釜を粉々に砕いたのち自害。
久秀の死と共に信貴山城は廃城となった。
久秀はあの千利休と茶の師匠を同じくする文化人でもあったのだとか。
というのが信貴山城とその城主であった松永久秀の歴史。
ほほう、勉強になるなぁ。
てか、けっこう歴史上に影響を与えた人物じゃんか。
朝護孫子寺の野良猫たち
さて、来た道をまた戻って、朝護孫子寺にて。
野良かなぁなんて思って、逃げないように慎重にネコの前に移動。
しゃがんでネコ目線で撮影しようとおもったら・・・
ってこっちくんのんか~い。
人に慣れてるのか、野良の方からスリスリしてくる。
ちょっとヾ(・ω・*)なでなでしたら、満足したのか去っていった。
するとまた違う野良に出会った。
どうやら去勢していならしく、耳がカットされていない。
だが、わりと逃げないんだな。
さて、そろそろ昼時。
お腹が減ってきた。
うどんの元祖、春日はくたくって何だ。
さて、朝護孫子寺のお土産屋で昼食でも。
お店の前でメニューを見てみると・・・
うどんのルーツ、春日はくたく?
こりゃなんだ。
平安時代の右大臣 藤原実資の日記「小右記」に、一条天皇の春日大社行幸の折、春日大社で一行は「はくたく」がふるまわれたとの記録がある。
「はくたく」は、小麦粉、米粉を山芋でつなぎ、板状に伸ばした平麺。
この史実をもとに、NPO法人奈良の食文化研究会が春日大社式年造替を記念して古代のうどんを現代風に再現されたとのこと。
ほほ~ん。
こりゃどんなもんなんだぁ。
で、注文。
春日はくたく、770円なり。
いや~旨いわ。
温まるわぁ。
コシのあるうどんが苦手なんで、こっちほうが好みかも。
お出汁も関西風味で全部飲んじゃった。
いや~充実した休日の午前中だわ。
ってこんな感じの今日この頃でした。
ではでは。