山本作兵衛という人物を始めて知った。
彼が描いた炭鉱の記録画や日記、雑記の697点が日本初のユネスコ「世界記録遺産」として2011年に登録認定されたということも初めて知った。
山本作兵衛とは
世界記録遺産にはアンネの日記、フランス人権宣言、ベートーベン第九交響曲草稿などがあり、直筆文書、書籍、絵巻物、写真などが対象なのだとか。
で、山本作兵衛とは何者なのか。
明治25年生まれで7歳の頃から炭鉱の坑内に入り働くこと50余年。
筑豊各地の炭鉱を転々としながら明治・大正・昭和と坑内で働き、昭和33年に「ヤマの姿を記録して孫たちに残しておこう」と昔の記憶を手繰り寄せながら筆をにぎり、9年間で数百枚の絵と6冊の大学ノートに記載された貴重な記録を残した人。
明治当時の炭鉱の暮らしは写真も記録も少なく、彼の描いた坑内の仕事の情景、暮らしぶりの情景が鮮烈であり、詳細がよく分かる貴重な資料なのだ。
明治時代の炭鉱で働く坑夫の暮らしを知って思うこと。
最近、貧富の格差の問題が取り上げられることが多く、特に賃金の安い非正規雇用に注目が集まっていますが、明治の炭鉱も同じく、派遣の非正規制度が主流だったことを知った。
炭鉱で働く坑夫って雇われだと思ってたんだけど・・・
炭鉱では炭鉱主が弱者である坑夫からお金を搾取するすごい仕組みが成り立っているのも驚き、パソナが淡路島に本社を移転し、いろいろとプロジェクトを立ち上げているのもこのような仕組みづくりじゃないだろうな。
っていうか今も明治も100年近く経つのに労働者の扱いってそれほど進歩なく、昭和の経済成長が特異だったのだろうなぁとも思う。
明治当時の劣悪な労働衛生環境を学んだことは書くまでもないのだが、根本的な貧富の差が生まれる理由は100年経ってもそう変わらんもんなんだというのは面白い発見だった。
てなわけで、明治時代の炭鉱の暮らしぶりを個人的な備忘録として箇条書きで残しておきたいと思う。
明治時代の炭鉱坑夫の暮らしぶりを箇条書き
●生活に困った家族が最後の行きつくところが炭坑である。
●炭鉱では納屋制度があり、納屋頭領という顔役が、炭鉱主から請け負って労働者を雇い入れ、稼ぎの1割程度を「斤先」(きんさき)という名目でピンハネをするいわゆる派遣会社である。坑夫になるにはこの納屋頭の支配下にならなければならない。
●納屋頭領は集めた坑夫の暮らしむきまで監視、世話をやき、世帯持ちの坑夫には住居があてがわれるが、4畳半一間で押し入れはなく、土間は90㎝程度と狭く、子供の多い世帯は寝る場所がない。
●屋根は藁ぶきはまだ良い方で、ほとんどがそぎ板で物置小屋のようだったから納屋と呼ばれる。
●父親だけの稼ぎでは暮らせないほどの賃料なので、子供や女房も炭坑に入る。
●炭鉱の中では女性も上半身は裸である。
●炭坑の稼ぎは夫婦二人で働いて日給80銭~1円程度(当時米一升1.5kgで20銭程度)
●ツルハシで石炭を掘るの人を先山(さきやま)と呼び、掘った石炭を炭車まで運ぶ人を後山(あとやま)と呼び炭坑内ではこの2人1組で仕事をする。
●炭車に入れた炭の量が賃金(切り賃という)となり、炭函1函で25銭程度、熟練の先山でも1日1人あたり2函半ほどなので50銭程度の稼ぎだが、検炭係が炭の量を検品しボタと呼ばれる捨石の混ざり具合を見て勘定から差し引く勘引きがあるため1合から2合ほどの量を減らされる。
炭鉱から上がって勘量室に炭札を受け取りに行くと概ねいつも2合ほど勘引きされており、この勘引きは計画的な可能性が高い。
●採炭の賃金は現金では支払われず、炭鉱内だけで使える「切符」と呼ばれる私製紙幣で支払われる。
●「切符」は炭鉱外ではただの紙切れ同然なので、炭鉱外で買い物をするには「現金」に変換する必要があるが、両替料として三割以上の目銭が差し引かれる。
●日頃の買い物は炭鉱直営の売勘場(うりかんば)と呼ばれる場所で買う。
米、酒、醤油、味噌、塩、油、砂糖、タバコ、ワラジ、仕事道具などの必需品は売勘場以外での販売は禁止。
しかも売勘場の商品は市場よりも高い値付けである。
●これすなわち炭鉱から外に出れないような仕組みとなっている。
●炭鉱は地に無数の穴をあけるので地下水が枯渇し、井戸を掘っても水は出ず、水は貴重であったため、コメのとぎ汁も捨てずに使う。
●風呂は炭鉱からの揚水でシリンダー油なども混じっておりねっとりとしていて人間が入るものではなかった。また浴槽内で石鹸を使う者もおり、さらに湯舟は最悪な環境。
●風呂は男女混浴。
●階級によって風呂場が違う。役員用は4分の3坪、職工用は1坪、坑夫用も1坪、特殊風呂は半坪。
●ちなみに特殊風呂とは部落の人たち用で、当時は部落民を特殊といって差別をしていた。
●ツルハシの焼き直しは各自で料金を払って鍛冶屋に頼む。素焼き5厘、刀金付け2銭5厘、各自5本ぐらいのツルハシを持って炭鉱に入るので、5本分だと3銭〜4銭。
カンテラの油代が3銭。これが毎日の出費となりなかなか手元にお金が残らない。
●切符は炭鉱外では使えないが住友系の切符は信用度が高く、外来商人でも引き取ってもらえた。
●切羽(トンネル掘削の最先端個所のこと)ではカンテラの油で煤煙が立ち込め、鼻の孔は煤で真っ黒になる。
●明治35年頃から安全のため、カンテラから安全灯に切り替わる。
種油又は魚油を使用するので悪臭がひどかった。
●炭鉱の仕事は常に落盤、ガス爆発、出水などの危険が伴うため不吉なものを忌み嫌う。煙突のけむりが二つに分かれることは悪い兆候とされた。
●一家の大黒柱が倒れると、一家はたちまち行き詰まる。今のような生活保護などない時代。そんな家族を見かねた炭鉱の顔役や有志達が仲間を募って奉加帳(奉加する金品や寄付者の名をしるす帳面)をまわして寄付したり、紋引きといわれるくじ引きを開催し、集まったお金で困窮者を支援するなどをしていた。
また、頼母子講(たのもしこう)といわれる仲間内の共済を作ったり、博打を開帳して収益を寄付するということが弱者救済として行われた。
●明治から大正にかけて夫婦共働きで炭鉱で働き、何とか家計をまかなっていたものの、昭和6年12月の法令で女子の入航が禁止された。
男での稼ぎに頼らなければならず、家計は困窮。
危険極まりない暗闇の労働から解放されたものの、稼ぎ場所を奪われた女坑夫は困惑したとか。
●第二次世界大戦がはじまると、徴兵で男の坑夫は戦争へと出ていき、坑内は人手不足で二人前、三人前の働きをしろという大号令。
そのため女の坑夫も入坑し、まるで明治時代の炭鉱に戻ったかのよう。
当時は政府から坑夫の移動防止令が出されており、徴用で何も知らずに炭鉱に来た若者が炭鉱の生き地獄に耐えかねて脱走しようとするものもあり。
夜間の脱走が多かったため、一番方は朝日とともに入坑し、日没前に昇坑。
二番方は日没とともに入坑、夜が明けてから昇坑させられるようになり、真冬となると14時間以上も孔に閉じ込められるので堪えれず、逃げることもできなく、ダイナマイトで自殺をするものも出たとのこと。