暮らしの顛末(くまくまコアラ)

40代サラリーマン、Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

世界の脅威であったペストの正体を暴いたのは日本人だった。偉大な日本人「北里柴三郎」について

大阪某所、場所は伏せられている「たたり地蔵」

田辺青蛙(著)「大阪怪談」という文庫本で知った話。

場所は伏せられているが、大阪の某所に「たたり地蔵」と呼ばれる地蔵堂があるのだそうな。
その地蔵堂には南京錠が掛けられており、地元で暮らす人達はこの地蔵堂を拝むと祟りがあると信じているらしい。

大阪の郷土史に詳しい人も祟りがある地蔵堂として聞いたことがあるとの事。

しかしながらこの地蔵堂を管理している町内会の人によると、この地蔵堂はもともと「たたみ地蔵」と呼ばれていたらしく、いつの間にか「たたり地蔵」と呼ばれるようになったそうだが、なぜ「たたり地蔵」と呼ばれるようになったかは不明なようだ。

「たたみ地蔵」とはまた意味がありそうな名だ事。

実は明治時代ここでペスト(黒死病)で亡くなった人が使用していた畳を積み上げて焼いていたのだそう。

亡くなった人の嘔吐物や血で真っ黒なシミが付いた畳が積みあがって、そりゃもうドント焼きのようやったそうな。

で、ペストで亡くなった人の慰霊のために、遺族、医療関係者がここに地蔵堂を立てたらしい。

当時、ペストの大流行で大阪は感染者数が一番多かったからね。

とのエピソードを知った私。
当時の大阪のペスト状況が気になって調べてみた。

最も死者が出た地域が大阪だった。

大阪では2回のペスト流行が起こったそうで,第一波が1899~1900年、161名の患者(死者146名,致死率90.7%)。
第二波が1905~1910年)で958名の患者(死者860名,致死率89.8%)を数えたそう。

コロナ過の感染者数に慣れているのでいささか大流行というには感染者数が少ないと思いがちだが、その致死率が約90%とは驚きだわ。

逆に10%の生存者がなんで完治したのかが気になるところ。
免疫力の違いなのか生命力の違いなのか、それとも単なる運なのか。
その資料は見つからず。

 

世界の脅威であったペストの正体を暴いたのは日本人だった。


中世ヨーロッパで大きな影響を及ぼし、世界で一億人をはるかに超える死者を出したといわれるペスト。
ヨーロッパでは収まりを迎えるものの、約100年ぶりに中国南部、香港で再び猛威をふるう。

この事態を重く見た明治政府は私立伝染病研究所を創設し、伝染病と細菌学に取り組んでいた「北里柴三郎」を香港に派遣。

その時の香港状況はというと、感染していない家庭を見つけるのが難しいほど、世に萬栄をしていたという。
感染者が出た家をかたっぱしから焼き払うという壊滅的な状況だったそうな。

原因菌が分からない状況ではそのような対処しか出来なかったのだ。

そんな一刻の猶予もない状況のなかで、北里らは到着するや病死した患者の解剖に急いで着手するが、顕微鏡で解剖標本をのぞくと、すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して埒(らち)があかない。

そんな中、長年の経験と知見をもとに、血液中に特徴的な細菌を発見。

ついにペストの正体が暴かれた瞬間だった。

その後、ペスト菌の正体を暴いた北里柴三郎はペスト菌の除菌方法や感染経路を解明し、香港の感染は終息に向かう。

香港でペスト菌を発見した5年後、いよいよ神戸、大阪でもペストが・・・

北里柴三郎が香港でペスト菌の発見した5年後、今後は神戸、大阪でペスト菌が大流行した。
すでにペスト菌の蔓延経路を知っていた北里柴三郎は自ら指揮を取り、菌を運ぶネズミの駆除、公衆衛生の改善を徹底させて終息に導いたが、当時、大阪ではネズミは福の神の使いで駆除に否定的は人も多く、また貧困故に感染を隠す人も多かったという。

ならば、貧困とネズミの駆除とを一緒に解決する方法として、北里柴三郎が知恵を絞った結果、ネズミを捕まえると、そのネズミを買い取るという作戦に出た。
これが大阪人の心を掴んだのか、ネズミの駆除は捗り、ペストの終息に役立ったそうな。
いやいやそれにしてネズミを買い取るお金は北里柴三郎の私財で買ったんでしょ。
そう思うと昔の人は凄いなぁと思う。

コロナ過が落ち着いたら、私財をはたいてコロナ終息に尽力した人のエピソードも紹介されるのかもしれない。

いやいや、こりゃなかなか刺激的なエピソードだこと。

福沢諭吉が私財をつぎ込んだ北里柴三郎の感染病研究所

北里柴三郎は日本の感染症予防に寄与したいと考え、国に伝染病研究所の設置を強く訴えたが、その思いは叶えられなかった。
そこで、福沢諭吉は自らの私財を投じて研究所を設立してくれたのだそう。
土地を提供し、資金調達を手伝い、自らの教え子を事務長にまで派遣したそうな。

北里柴三郎はその恩に報いるため、研究所で患者のために牛を飼い搾乳していた牛乳を福沢邸へ牛乳を届けさせていた。

がある日、福沢諭吉は牛乳瓶にわずかな汚れを見つけ、この瓶の汚れが研究所の怠慢を語っている。偉業を志すものとして何たることかと激高したそうな。

それ知った北里柴三郎は福沢邸に出向いて平謝り。
偉人でも気が緩むこともあるんですな。

その後、前述のとおり、北里柴三郎は香港へとペストの原因究明に向かうのですが・・・

北里柴三郎がペストの原因を突き止めた後、同行していた医者数名がペストに感染したことを福沢諭吉が知ると、彼は内務省へと赴き、

「北里を殺してはならぬ。学問のために大切な男だ」

と帰国させるように迫り、その後、「スグカエレ」と電報を打ったそうな。

まぁそんなこんなで感染病研究所は大きな成果を上げたので大隈重信内閣は本人になんの相談もなく、勝手に研究所を東京帝国大学に付属させることに決めたっちゃんだな。

そんなもんだから北里柴三郎は教育のために感染症の研究をしているのでないと、自分だけが辞任するつもりでいたものの、部下まで辞めるといってきたもんだから、北里柴三郎は莫大な資金を投じて立派な私設の北里研究所を立ち上げた。

それができたのも、諭吉のお陰。
生前、諭吉は柴三郎に「政府の方針が変わったときに備え、いつでも独立できるよう金を貯めておけ」と繰り返し忠告してくれたので、柴三郎は大金を貯め込んでいたそうな。

その後、北里柴三郎は請われて慶應義塾大学の医学科(医学部)創設にかかわり、開校式が挙行された。
時の総理大臣原敬も来賓として訪れるなか、医学科学長の北里柴三郎は「予は福沢先生の門下では無いが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である。」と言ったそうな。

こんないい話を知って胸熱な今日この頃です。
ではでは。