世界初の蚊取り線香誕生のエピソード
大日本除虫菊株式会社である金鳥。
その金鳥の創業者、上山栄一郎が世界で初となる蚊専用退治商品「蚊取り線香」の生みの親。
上山栄一郎は和歌山県有田市で、「紀州みかん」農家の4男として生まれた。
実家の農業を継ぐつもりはなく、自ら事業を立ち上げたいという野望を持ち上京。
慶應義塾に通って福沢諭吉の教えを受けるものの、脚気を患い、和歌山へと帰ることに。
帰郷してまもなく、福沢諭吉からの連絡が。
なにやらアメリカの種苗商が、ミカンの苗に興味があるそうで、そっちで面倒を見てほしいとのこと。
恩師からの頼みならばと、東京までアメリカの種苗商を迎え行き、和歌山の実家のミカン農園を案内、ミカンの苗をお土産に持って帰ってもらったそうな。
この待遇にたいそう満足したアメリカの種苗商は、帰国後、様々な植物の種をお礼にと上山の元へと送った。
その様々な種の中のひとつが旧ユーゴスラビア原産の除虫菊であった。
手紙によると荒れた地でも育つとのこと。
農家は作物にとりつく害虫で困っているはずだ。
この除虫菊を育てれば農家の助けになる。
そう考えた上山栄一郎は全国を回って除虫菊の普及に精をだすもの、保守的な農家から重要性を信じてもらえず。
とうとう除虫菊の種を無料で配布して回り徐々に栽培する農家が増えていくもののこれでどうやって貿易をして農家を豊かにさせればいいのか。
上山は西洋から入ってきた舶来の「ノミ取り粉」が除虫菊の花を乾燥させたものだと知り、国産の「ノミ取り粉」の商品化に着手。
「ノミ取り粉」の販売に目途がついてきた時、ちょっと待てよ。
日本人はノミよりも蚊に悩まされている人の方が多いはず。
除虫菊を使って蚊専門の退治商品の開発に着手。
そうして明治23年(1890年)に棒状の蚊取り線香を発明。
しかし棒状の蚊取り線香の燃焼時間は約40分。
これでは朝までもたない。
そこで明治35年(1902年)に長持ちする渦巻状の蚊取り線香を発明。
倒産寸前でも農家から高値で除虫菊を買い続けた上山栄一郎
渦巻状の蚊取り線香を開発した翌年の明治36年。
除虫菊は大豊作となり、除虫菊の相場が下がり始める。
農家との取引契約では1貫目2円で買い取りという契約をしている中、相場は下がり1貫目50銭という相場でありながらも、上山は契約通りの1貫目2円で買い取っていたそう。
そんな中とうとう1貫目30銭という相場にまでなり、これでは上山も契約農家も共倒れになってしまう、今こそ海外に販路を築こうと、外国商館の役人を訪ねるも門前払い。
そんな折、明治37年2月に日露戦争勃発。
自分の会社の危機よりもお国を危惧した上山は除虫菊粉を国に寄付。
すると軍から除虫菊の大量発注依頼が舞い込む。
なんと1貫目5円80銭で買い取るという。
みんな相場が下がった除虫菊を手放していたので、大量に在庫を持っていた上山の元に注文が殺到したのだった。
さらにこの年はヨーロッパの除虫菊が大凶作であったため、外国商館からも大量の受注が舞い込み、ついに外国へと販路が拡大、倒産の危機を脱した。
とうとう除虫菊神社まで出来てしまった
なんと広島県尾道市の亀森八幡神社の境内に除虫菊神社がある。
一体誰が何の目的で・・・
って思うのだが。
実は各県の除虫菊農家関係者が建てたのだそうで、自身の会社が危機にありながらも除虫菊農家を守り、その発展に尽力し続けた上山栄一郎は農家にとって神様そのもの。
上山は「生きながらに神に祀られるなど神への冒涜だ!」と断固反対し続けたそうだが、それを上回る農家達の熱量に押され除虫菊神社が建立されたそう。
いやいや凄いバイタリティーの持ち主だこと。
てことで今日はこれまで。
ではでは。