さてさて、今日は奈良の秘境、日本一大きな村である十津川村の湯銭地温泉(とうせんちおんせん)を目指す。
写真の場所は大塔付近。
この場所でもかなり山の中なんだが、ここからいくつもの峠を越えて30㎞先にあるのが十津川村の湯銭地温泉(とうせんちおんせん)。
只今の気温20℃だと!
いくら今日が涼しいとは言え20℃とは・・・
さすがは山の中だわ。
で、到着したのは道の駅「十津川郷」
奈良県十津川村は日本一大きな村として有名で、かなり山深い場所にある。
その広さは日本最大の湖である琵琶湖がすっぽりと入るほど広大な村なのだ。
十津川村の面積が面積は672.38k㎡。
滋賀県の琵琶湖の面積が670.4 km²。
ちなみに東京の山手線の内側の面積は63~65平方kmと言われているので、山手線の10倍の面積があるという村なんだな。
なんとも誰かに話したい豆知識でしょ!
で、十津川村がどれだけ秘境かというと、生活用のつり橋として日本一長い吊り橋があったり、様々な温泉地があったりと紀伊山脈のど真ん中にある村なんだな。
で、そんな温泉豊かな十津川村の道の駅「十津川郷」には足湯があったりするんだけど。
今回の目的地は公衆浴場の泉湯なんだな。
道の駅に車を停めて500m先の湯湯地温泉泉湯を目指す。
公衆浴場泉湯の案内看板が見えてきた。
山間ののどかな集落って感じだな。
この辺りは温泉民宿もちらほら。
やってきました。
十津川村の大衆浴場の湯銭地温泉泉湯。
線質はアルカリ性単純硫黄泉。
泉温は52.7℃で源泉かけ流し。
歴史は古く1581年佐久間信盛が訪れたといわれている。
入泉料は一般村外の人は600円。
村内の人は200円との事。
200円で天然温泉に入れるとは十津川村の人がうらやましい。
温泉施設内は脱衣所と浴場、露天風呂だけで休憩所や食事を提供するような場所はないようだ。
脱衣所はこんな感じ。
広くはないけど、古さは感じられず真新しい印象。
コロナ過だからだろうな。
入浴の人数制限がされている。
雨の中、露天風呂に入る人用に笠が用意されているとは・・・
いや~いい湯だわ。
内湯は源泉が52℃ということもあり、かなり熱い。
43℃ほどあるんじゃないだろうか。
熱いお湯も気持ちが引き締まって気持ちがいいんだけど、こりゃそうそうにのぼせそうだわ~。
ってことでそうそうに露天風呂へ。
露天風呂はまた湯の温度がかなり低い。
36℃ぐらいかな~。
お湯はかすかに硫黄の香りがする程度。
サラサラとしたお湯で無色。
で、温泉につかるおっさんの足。
このご時世、おっさんの足なんて載せるとはコンプライアンスとかガバナンスとかどうなってんだ!
って怒られそうそうな。
ごめんなさい。
豪華な大浴場とか、見晴らしいのいい大きな露天風呂とかもいいのですが、私はこのようなこじんまりとした小さな温泉に旅の面白さを感じたりするんですよね。
雑念が無くなるというか、独りぼっちの無を楽しむというか・・・
周りの会話を気にせず、無心になるのがいい感じ。
自然の音と湯が流れる音しか聞こえない。
いやいやいい時間だわ。
さてさて、温泉にもつかったし、腹ごしらえと。
道の駅「十津川郷」の二階にある蕎麦処「行仙(ぎょうぜん)」へと。
さて、何を食べようかな。
ここは隣に村役場もあったりして、役場の人の食堂にもなっている印象。
日替わり丼などもあるみたい。
で、注文したのはシンプルにざるそば。
なかなか雰囲気のあるざるそばだわ。
蕎麦湯があればうれしいんだが、残念ながら蕎麦湯はなかった。
帰りは奈良県の五條新町へと・・・
こちらは奈良県五條新町のまちなみ伝承館。
観覧は無料。
奈良県五條新町も伊勢湾台風で浸水したとは知らなかった。
1階の天井の梁まで浸水したそうで下水道が整備されていない時代なのでさぞ汚水が流れてきたそうな。
新町の真横を流れる吉野川の下流の橋で瓦礫がたまり、川が逆流してきそうな。
そんな話を施設の人に伺っていると、新町には現存する日本最古の住宅があるという。
それがまたいつも家の前の通っている道沿いで、凄い家だなと思っていた家だった。
こちらが日本で現存する最古の住宅。
400年以上も前に建てられた家との事。
栗山家というらしい。
しかも今でもここで暮らしているそうな。
この日本最古の住宅があるので、ここ新町は最古の街道とも言われるそうな。
旧紀州街道沿いの商家町として栄えた五條新町地区は、慶長十二年(1607年)の栗山家住宅(重要文化財)をはじめとする江戸時代の建物が、現在も約70棟残されています。
江戸時代初めまでに成立した町割に、重厚は町屋が軒を連なる町並みは、歴史的景観を色濃く残し、全国的に価値の高い商屋町として、平成22年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
五條新町地区は、吉野川の支流の西川東岸に広がる「五條」と、吉野川北岸を並行に通る旧紀州街道沿いに広がる「新町」の二つの異なる町並みから成立しています。
五條の町並みは、中世に起源がさかのぼる御霊神社御旅所を中核として成立し、間口と奥行の異なる不規則な町割が施され、大規模な町家が面的に広がりを見せています。
一方、新町の町並みは、慶長13年(1608)、関ヶ原の戦いの功績によって一万石余りの大名として二見城に入った松倉重政が、城下町の一部として築いたことに始まります。
二見城とすでに町場として栄えていた五條村とを結ぶ地域に、間口と奥行のそろった敷地割をもつ町家が直線的に築かれました。
元和2年(1616)、松倉重政が肥前国(現在の長崎県)日之江城に転封となり、二見城が廃城となった後も、新町は商業を基盤とした紀州街道の宿場町として発展しました。
また、五條は、江戸時代初頭に伝馬所、寛政7年(1795)に代官所が設置され、南大和の政治経済の中心地として栄えました。
近世以降、歴史的な町並みを形成してきた五條新町地区ですが、度重なる火災や水害にも見舞われています。
延焼を防ぐために、軒裏まで漆喰で塗り込めた重厚な町屋がつくられました。
また、吉野川の氾濫を克服するために、結晶片岩を積み上げた石積護岸や石積基礎が築かれました。
災害を克服してきた結果、江戸時代初めかた昭和初期まで約4世紀にわたる町並みが今に残されています。
ってことで今日はこれまで。
ではでは。