暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

ワクチンという概念がない時代に天然痘予防の治療法を広めるために国をも動かした福井の町医者の物語。吉村 昭「雪の花」。

さてさて、コロナ過の時代に同じような論争がはるか江戸時代に類似した歴史的のエピソードがあったとは・・・

江戸末期幕末時に活躍した福井県の町医者 笠原良策(かさはらりょうさく)の物語。
漢方医であった笠原良策が27歳の時、日本では天然痘が大流行。
天然痘で亡くなった人を急いで大八車で火葬場へと運ぶ光景はここ福井でも日常茶飯事であった。
その光景を丘の上から毎日のように眺め、漢方医として何も出来ない自分の無力さを感じていた。

夏が終わり、天然痘の流行が落ち着いてくると、慌ただしかった天然痘の流行に神経をすり減らした笠原良策は疲労回復のため、ひとり山中温泉へと向かう。

山中温泉で偶然出会った蘭方医の大武了玄(おおたけりょうげん)から蘭方がいかに進んだ医学であるかを聞かされた。
前野良沢、(まえのりょうたく)杉田玄白(すぎたげんぱく)が翻訳した「解体新書」は画期的な成果であったと褒め、漢方の五臓六腑には多く誤りがあると・・・

蘭方は流行りもので漢方こそ長い歴史が築いた信頼できる医学であると考えていた笠原良策は気分を損ねたが、学ばずに批判をするのでは医学の進歩はあるまいと考え蘭方を学ぶことに。

彼は京都の蘭方の大家と言われている日野鼎裁(ひのていさい)の門下生として学ぶ。
門下生たちは朝から医学書を読み、昼間は熱心に授業を聞き、夜遅くまで医学書を読んだ。
門下生の熱っぽい空気に感化された良策。
かれもまた熱心に蘭学を学んだ。
やがて良策は塾生の中でも一目置かれるようになり、日野鼎裁は良策の貧しいながらも医学の勉強に熱心な姿勢に好意を抱き、京都の蘭方医大家である新宮涼庭(しんぐうりょうてい)と小石元瑞(こいしげんずい)を良策を紹介し、教えを受けさせた。

良策は研鑽を重ね成果もあったので福井へ戻り、再び町医者として治療にあたるとともに蘭方の広めるため町医者を集め、研究会などを開いた。

5年の歳月が流れた。
京都では日進月歩で新しい医学書を学べるのだが、ここ福井では情報格差がありすぎると再び京都の日野鼎裁の元で学ぶことを決意し、日野鼎裁の家を訪れた。

日野鼎裁は珍しい医学書を手に入れていた。
そのことを良策に手紙で伝えるつもりであったところを良策が京都に来るという知らせがあったとのこと。

良策の目の前にだされた医学書には「引痘略(いんとうりゃく)」と書かれていた。
疱瘡(ほうそう)に関する本である。
ひも解くと、牛も疱瘡にかかり、これを牛痘(ぎゅうとう)と呼ぶ。
牛痘は人間にも感染するが症状は軽く病にもならない。
そして、牛痘に感染した人は一生涯疱瘡にかからないことがはっきりしていると。

ようするに牛痘の苗を入手し、人にうつさせれば天然痘予防になるということだ。
牛痘に感染し腕に発痘した幼児のかさぶたを入手。
未感染の子供の腕に針を打ち、そこにかさぶたを被せて発痘させるというもの。

良策はにわかに信じられなかった。
しかし、中国では10年以上もこの方法で種痘を行ってきたが、病を起こしたものもなく、その後疱瘡にかかったものも1人もいないのだそうだ。

となればどうやって牛痘の苗を入手するかである。
オランダから輸入するとなると船の移動で時間がかかり、牛痘のかさぶたが風化する。
唐からだと最短で入手が可能である。
しかし、唐からそのようなたぐいのものを輸入することは国法で禁じられている。
まずは国からの許可を取り付けなければならない。

良策は主君である福井藩主松平春嶽(しゅんがく)に嘆願書を出すことを思いついた。
春嶽は革新的な考えを持ち、西洋文化にも理解を示している。
また、徳川将軍家の親族である徳川三卿の田安家の出で、幕府に対する発言力も強い。
領民に対しての愛情も深い春嶽なら天然痘で苦しんでいる領民のために努めてくれるはず。

日野鼎裁も賛成し、良策とともにさっそく嘆願書の作成に取り掛かる。
かなり内容、長文になり、何度も訂正加筆をして嘆願書を完成させた。

嘆願書の完成とともに良策は京都を立ち、福井の町奉行所に提出をした。
が、待てど暮らせど返事が来ない。
町奉行所で様子を伺うと「検討中である」との一点張り。
嘆願書を町奉行所に提出して2年の月日が流れた。
検討中というが、奉行所でにぎりつぶされていることは明らかだった。

良策は2年経ってもなんの返事もないことを町奉行所へ訴え、不都合があるならぜひご意見を伺いたいと攻寄った。
すると「あのような突拍子もない子供だましとしか思えぬ嘆願書よりももっと重要な嘆願書の処理が山積みなのだ。」と。

やはり奉行所の無知・偏見で握りつぶされていた。

そこで良策は嘆願書を持って、藩医である半井元沖(なからいげんちゅう)の家を訪ねた。
半井元沖は福井藩内で最も優れた医家であり、西洋医学の知識も豊富であった。

良策は嘆願書を差し出し、これまでの経緯を説明した。
すると元沖は「私も医学を学ぶものとしてできる限り力を貸し申そう。」と。

藩主である松平春嶽が江戸におり、元沖は侍医として主君に仕える江戸へと向かった。
元沖は江戸に身を落ち着かせるとさっそく良策のために動いた。
まずは側用人である中根雪江の元を訪ね、嘆願書の意見を聞いた。
中根を嘆願書に目を通し、元沖に尋ねた。
「医者の立場として、元沖殿の率直な意見を伺いたい」と。

元沖は答えた。
「嘆願書の内容にあやまちはないと考えます。」
「藩の許可が得られ種痘が行わればわが藩の領民のみならず他藩の領民も疱瘡の病害から救われましょう。」

中根雪江は答えた。
「それでは御主君にこの旨を伝え、ご許可を仰ぐようにいたそう」

中根から嘆願書を受け取った春嶽はすぐに動いた。
藩の名で幕府に牛痘苗の輸入について正式の許可願いを出した。
春嶽からの許可願いを受けた老中阿部伊勢守正弘(いせのかみまさひろ)はすぐに申し出を受け入れ、さらに長崎奉行所へと赴任している大屋遠江守明啓(とおのうみのかみあきひろ)に対し全面的に協力するよう、唐から牛痘苗を輸入し、福井藩にあたえるよう命令を発した。

そのことを知った良策はひざまづいたまま顔を覆って泣いたという。
そして良策は日野鼎裁に早速手紙で知らせた。

その後、良策のもとには半井元沖と中根雪江から手紙が届いた。
手紙の内容は「幕府の許可が置いたのだから一切遠慮はいらぬ。すぐにでも積極的に行動し、直接長崎に行って牛痘苗の輸入に尽力してほしい。」との激励の手紙であった。

良策は家財を売り、旅費を工面し、旅支度を初めていた。
そんな時、師である日野鼎裁から手紙が届いた。
すでに長崎に牛痘苗が到着しているとのこと。
その苗を唐から来たものではなく、オランダ領のバタビアから取り寄せたものでその苗を使って幼児に種痘をおこなったところ見事に成功したそうだ。

良策は長崎へと旅立った。
途中6日目に京都に到着し、日野鼎裁の屋敷を訪ねた。
待っていたぞという日野鼎裁が挨拶もそこそこに良策を屋敷へ上げる。
「笠原、牛痘苗を長崎まで取りに行く必要はなくなったぞ!牛痘苗はすでに私の家についておる。」

以前から交流のあった長崎の唐通事のものがバタビアから来た牛痘苗を孫に接種し、腕にできたかさぶたを八粒を送ってもらったという。

しかし日野鼎裁の表情は曇っていた。
届いたかさぶたを日野鼎裁の孫7人に接種をしたが感染に失敗したらしい。
最後の一枚に臨みを託し、接種を試みたところ、小さな赤い点が見られた。
が、書物に書いてあるほどのものではなく不完全なものであった。
かさぶたを植えてから七日目、ちょうど痘苗がもっとも熟す頃である。
かすかににじみ出ている膿をすくい接種に失敗した二人の幼児に植え付けた。

その二児に苗を植えてから今日が七日目なのだという。
良策と日野鼎裁は幼児の腕の状況を確認したが弱弱しく赤く腫れている程度で発痘とは程遠いものであった。

二人はいかに発痘が難しいものであるか改めて思い知らされた。

最後の頼みとして、16歳の娘が治療室に招き入れられた。
この娘に幼児二人の腕からかすかに掬い取った苗をすりつけ種つぎを終えた。

三日目の夕方、種痘が成功したかを確認できる夜。
日野鼎裁と良策は顔を寄せて娘の腕を見た。
すると十分な赤みが浮き出し、力強くはれていた。

努力がようやく花開いた瞬間だった。
日野鼎裁邸は喜びで沸き立った。
翌日には接種に成功したという知らせが役所にも伝わり、検分のために役人を派遣するほどであった。
検分の役人の報告を受けた役所は協議の末、積極的にこの療法を広めるべきという結論に至った。
役所は正式に種痘所を開くように指示し、京都新町三条北に種痘所を開設。

良策は江戸の半井元沖(なからいげんちゅう)に手紙で事の詳細を送った。
すぐにでも福井に牛痘苗を持ち帰りたいが苗が途絶えては元も子もない。
しばらく京都で種痘普及を行い苗の確保を十分にする必要がある。

すると半井元中沖から返事が届いた。
「源をかためなけれなばならないという貴殿の配慮に感服する。そのようにお伝えする故、日野鼎裁と協力して種痘を広めることに努力するよう。
いずれ福井藩内で種痘が行われた折に、藩として十分な感謝を示すよう尽力する所存である。」

その後、日野鼎裁とともに種痘活動をしている良策の元に二人の男が訪ねた。
その男は大阪の医師である緒方洪庵(おがたこうあん)と日野葛民(ひのかつみん)であった。

その目的は牛痘苗を譲り受け大阪でも種痘を広めたいとのことであった。
良策は譲ってあげたいのはやまやまだが、福井藩が幕府の許可を得て牛痘苗を輸入したもので、福井に持ち帰る前に他藩に苗を分けるのは一存では決めかねるとした。

そして良策は半井元沖(なからいげんちゅう)に指示を仰いだ。
するとすぐに返事かえってきた。
半井元沖は側用人の中根雪江に伝えたところ、大阪への分苗には賛成したが、福井藩のものを下賜(かし)する形をとること。
また良策は町医の身分ではなく侍医という形で下賜するようにとのことであった。

さて、いよいよ京都での種痘活動もそろそろ気を熟し、福井まで痘苗を持ち帰る決意を固めた良策。

京都から福井までは歩いて6日、7日ほどの道のり。
かさぶたを持ち帰るのが簡単なのだが確実に苗をつなぐには子供から子供へ種痘を続けるのが最善の方法。

そこで京都で種痘を受けさせた子供を二人雇い、福井から呼び寄せた子供を動向させ、旅の途中で種痘をするというもの。

だが当時種痘は世間には広まっておらず、種痘をする子供探しに困難を極めた。
多額の金銭を代償になんとか子供を見つけたが京都を立つ時期は11月末で雪山を超える覚悟が必要であった

幼児を抱え、命の危険を冒しながらもいくつもの峠を越え、何とか福井へ牛痘苗を持ち帰った。

福井に牛痘苗を持ち帰った良策は早速、仮種痘所を設け種痘を広める活動を始めたが、親は恐れて子供を渡さない。
良策は夜にも提灯を手に雪道を歩いて子供のいる家を訪ねまわったが京都や大阪と違って北陸の福井では異国文化に対しての理解も薄く種痘を受けるものは少なかった。

このままでは苗が途絶えてしまう。
京都では種痘に成功した翌日には役人が派遣され、積極的に広めるべきという役所のお墨付きがあったのだが、ここ福井では役人が訪ねてくることもなく、良策一個人の種痘所でしかない存在であった。
それでは種痘が広まるわけもなく憤りを感じる毎日であった。

藩のお墨付き、または藩が率先して種痘をするように促してくれないと、種痘をする人はほんどいない。

良策が命を懸けて持ち帰った痘苗も、藩の役人の無理解により絶滅の危機にさらされていた。

京都や大阪では、日野鼎裁や緒方洪庵の尽力により種痘が広まっているというのにここ福井では度重なる良策の口上書が役人レベルでもみ消されるという事実を知るとやぶ医者と蔑み小石交じりの雪玉を投げつけられ生傷が絶えない。

種痘の絶滅を役人に訴えても何の返事もない。
やけくそになった良策であったが、そのころ松平春嶽がお供を連れて福井へと戻ってきた。
その列に半井元沖の姿があった。
良策は早速、半井元沖のもとへ行き窮状を訴えた。
元沖は春嶽にそのことを報告。

良策の努力が報われず種痘が危機を迎えているとことに驚いた春嶽はその原因を調べされたところ、良策に協力をしているのは町医者だけで藩医が背を背いていることを知る。
そして良策のもとに家老狛帯刀(こまたてわき)から出頭命令が来た。

良策が出頭をすると御用番が封書を開いて読み始めた。
「医師の中には良策に対する嫉妬によってあしざまに非難をするものがあると聞く。福井城下で町人どもが種痘を好まむのは、医者たちが種痘を悪法だといいふらかしている故にほかならない。これらの医者の態度は言語道断である。
もしもなんの理由もなく種痘を非難するような心得違いの医師がいた場合は、藩医たると町医たるとを問わず相応の処分をいたす所存である。」

良策は種痘を一層ひろめることにつとめるようにと。

さらに藩では各町役人への触状が出され、まずは種痘が藩の仕事であるので人々は無料で種痘を受けることができると明記され、種痘に不安を感じて受けることをためらっているのはまことに遺憾である。
すでに多くの人が種痘を受けていて好ましい効果をあげている。
決していい加減な予防法ではなく、心配のないものであるので町内のすべて家々にこの趣を伝え、種痘を受けさせるように全力をそそぐことを命じる。

春嶽は良策の功績をたたえ、御目見医師に任じ三人扶持を与えたが、良策は協力をしてくれる町医の中で自分だけが好遇されるのは申し訳ないと辞退を申し出た。
種痘所は藩の公の機関として「除痘館」と名付けられ、館の運営に経費が与えられ。入口には藩の紋が入った提灯がかかげられた。

その後、種痘に消極的であった民衆も天然痘が流行る度に種痘をした子供が感染を免れているという事実を知り、「除痘館」に人が押し掛けた。

良策の努力は大きな実を結び、鯖江、大野、敦賀の各藩に伝えられ金沢、富山にも痘苗が分けられ多くの天然痘の害から人々を救ったといわれる。

その後、良策は享年72歳であの世へと旅経った。

こんな歴史的エピソードを知り、中間管理職の無能たるや今も昔もだわと共感したり、コロナ過の中、ワクチン接種の賛否両論は昔も今も一緒なんだなと感慨深く思いました。
時代がIT時代になっても昔とあまり変わりない議論がなされていることにびっくりです。