大阪府八尾市で生まれ育って50年。
初めて「八尾座」という名を知って興味を持った。
河内国の歴史なども興味深く読めたので、今後、興味を持った方がネットで調べて参考程度になれればと思って書いてみた。
非常にローカルな話になって申し訳ない。
- 石清水八幡宮の荘園であった大阪八尾市
- 「八尾座」のなりたち
- 「馬借」と呼ばれた人達
- ここからさらにローカルな話になる「植松村」について
- 膠(にかわ)作りの村
- 渋川神社のみこし洗い事件
- 渋川神社の祭りの差別が続く
- 八尾座の実業家、柴田利七さんが渋川神社に大鳥居を寄進
- さかさ祭りと言われる渋川神社の祭りの由縁
- 「求む工員、但しここより東の八尾木までの間の者は採用せず」という求人広告
- 八尾市の地場産業の成り立ち
- 同和推進校で育った私
石清水八幡宮の荘園であった大阪八尾市
859年、平安時代の初めに河内国と山城国(京都)の境に石清水八幡宮が創建された。
この八幡信仰が河内源氏などの武士の世界に広がると、八尾市南本町にある矢作神社が11世紀の初めに八幡宮を勧請し、石清水八幡宮の別宮となり、この界隈は石清水八幡宮の荘園になっていったのだそう。
石清水八幡宮から淀川の対岸には大山崎離宮がおかれ、大山崎離宮の神人たちは石清水八幡宮で使用する燈明の油を奉納する仕事にあたっていた。
やがて各地の大社寺でも燈油の需要が高まると、石清水の庇護を受けて大山崎離宮の神人たちは営業活動を始め、油商人として「座」を結成。
東は美濃・尾張、西は九州までエゴマの買い付けと燈油の専売権をにぎったそうな。
「八尾座」のなりたち
大山崎の油座はとうぜん河内国も支配しており、八尾別宮八幡の神人たちは、その営業活動の一旦を担うこととなる。
そして河内の中心である八尾であることから「八尾座」と呼ばれ燈油の商売をする河内商人が活動をした。
鎌倉時代から室町時代にかけて河内の町は物資流通に大きな影響力を持つようになる。
旧大和川に面した地の利を得て、油にとどまらず、塩、塩干魚など様々な物流拠点となった。
このあたりからは荷札が出土しており、南北朝時代に常光寺再建に努めたのもこの地の有力な油商人であったそう。
このように河内商人のもとをたどると「八尾座」と呼ばれた河内の油商人へとたどり着く。
「馬借」と呼ばれた人達
旧大和川に面した「八尾座」には大阪湾をへて瀬戸内の海からの物資や、上流の大和・河内からの物資も荷揚げされる場所となる。
当然、交通運輸の仕事が多く発生するわけで、農家から農耕用の馬を借りて運送の仕事を専門にする人も現れた。
そして馬を借りて運送をする人を「馬借」と呼ばれ、北は枚方、南は古市へと通じる河内街道が開かれ、この河内街道沿いにあった馬借の村を、「馬場村」と呼ばれていたそうだ。
河内街道付近は馬の往来が多くなり、馬が通り抜けられない行き止まり道には「馬アタリ」と記載され、馬の交通に配慮がされていたほど。
そうして河内街道を北や南へと輸送をする馬借たちは自然と、各地の情報にも通じ、農耕用で死んだ馬や牛の情報がいち早く分かるようになると、埋葬した草場から遺体を取得する権利を持つ皮職人によって処理されるようになった。
旧大和川は死んだ馬や牛の処理をするのに好都合であるし、戦乱の時代にあって、皮革は高価な必需品でもあった。
なので馬借人の村の中にはこのような皮はぎをする人も現れるようになった。
ここからさらにローカルな話になる「植松村」について
近世に呼ばれた八尾座は旧大和川(現長瀬川)の北側にあった。
八尾座に隣接する河内国渋川郡植松村は度重なる旧大和川の氾濫で被害を受け、氏神様である渋川神社とともに、水害の少ない現長瀬川の南側へと移転をした。
しかしながら移ってきたのは本村だけで八尾座の村はそのまま長瀬川の北側にとどまった。
残された八尾座村の人は「川向」と呼ばれ、このころから差別へとつながっていく。
【現在の渋川神社】
膠(にかわ)作りの村
大和川付け替えという大きな土木工事が終わり、大和川の流れは大きく南へと変わった。
そうなると河内では旧大和川の水で稲作をしていた農家に干ばつという被害をもたらした。
稲作よりも畑作として活用されるようになり、河内木綿の綿作地として村の生業は変わっていくのだが、八尾座の村人は旧大和川の運送業として「馬借」を生業としていただけに、大和川の流れが変わりその役割を終えた。
また、「馬借」で生計を立てていたため、土地所有の面積も少なく、河内木綿では食べていけない。
そこで始めたのが「膠(にかわ)」の生産である。
この辺りでは昔から死んだ馬や牛の皮をはいで皮を作る革職人が多い。
それらも大和川があったために死骸の処理が出来たわけだが、その利権も周辺からの理解が得られなくなり衰退。
八尾座の人たちはこれまでの商売の仕入れルートを活かして「膠(にかわ)」を生産した。
皮脂の油を加工した膠(にかわ)は墨の製造に欠かせないもの。
当時、墨の需要も多く、八尾座の膠(にかわ)は堺・大和・京都・金沢と幅広いエリアで取引され、八尾座で財を成した人も少なくはない。
また、製造過程で出来る骨類や膠(にかわ)カスなどは肥料として脚光をあびるようになる。
だが、膠(にかわ)を製造する工程ではかなりの悪臭が出るそうで、心情的にも悪臭の根源である川向と呼ばれる八尾座が部落差別の対象へと繋がっていく。
【新大和川が出来た当時の八尾の集落図】
渋川神社のみこし洗い事件
大正5年頃、この地域の氏神様である渋川神社で起こった事件。
渋川神社の御輿を安中町から引き継ぎ、八尾座の若者達が担いだ。
その後、八尾座から植松町の墓に通じる長瀬川の安清橋の上で事件が起こった。
植松町の誰かが「八尾座の担いだ汚れた御輿は担げん」といい。
長瀬川の水をかけ、清めの所作をしたことで橋の上で大乱闘となり、双方にけが人がでて、お祭りが修羅場と化したそうな。
その後、渋川神社の御輿渡行は10年間中止することが決められたそうだ。
【現在の安清橋】
渋川神社の祭りの差別が続く
渋川神社の御輿渡行は先ほどの安清橋事件のため、昭和になっても中止となるものの、植松町、安中町では町内所有のふとん太鼓が作られ、それぞれの村内でふとん太鼓がねりまわります。
八尾座でもこれに負けじと青年団がお金を工面して植松町、安中町を上回る立派なふとん太鼓を制作したが、いざ渋川神社の宮入の際に鳥居をくぐろうにもふとん太鼓が大きすぎて鳥居をくぐれず、これを見た植松町の住民は「渋川神社の神さんまで八尾座の人間をきろうてはんので、鳥居がくぐれんのや」と陰口をたたいたそうな。
【現在の植松の町並み、安中新田会所付近】
八尾座の実業家、柴田利七さんが渋川神社に大鳥居を寄進
さてさて、八尾座のふとん太鼓が渋川神社の宮入の際、鳥居をくぐれない問題を解決したのが八尾座で膠(にかわ)業を営む柴田利七さん。
1940年(昭和15年)に私財を使って現在の渋川神社の大鳥居を寄進し、八尾座の人々はふとん太鼓を荒々しく宮入することができるようなった。
【現在も残る柴田利七さんが寄進した渋川神社の鳥居】
さかさ祭りと言われる渋川神社の祭りの由縁
渋川神社のお祭りは毎年7月25日と26日に行われて、現在でも八尾市では屋台が沢山でる大変賑わうお祭りです。
また、渋川神社のお祭りはさかさ祭りと言われ、宵宮が本宮で本宮が宵宮という。
なんだか化かされているようなお祭りなんですがそれには由縁があるのです。
1533年の5月5日に旧大和川の氾濫で植松地域の堤防が決壊し、渋川神社が村もろとも下流に流されたのだが、
渋川神社の御神体は下流に流されたものの、旧大和川の逆流に乗って再び植松の地にたどり着いたのだとか。
このことから、ご神体は地域を守護するために再び戻られたという古事を伝えるため、さかさ祭りとして現在に受け継いでいるのだそう。
「求む工員、但しここより東の八尾木までの間の者は採用せず」という求人広告
1971年のことですから今から50年以上も前の頃。
八尾市内にあるN株式会社の求人広告には公然とこのように書かれてました。
「求む工員、但しここより東の八尾木までの間の者は採用せず」
N株式会社より東には八尾座があったため被差別部落を排除すべく作成された求人広告ですが、当時はこのようなものが何の疑問もなく通用していたそうだ。
八尾市の地場産業の成り立ち
現在、八尾近辺には油脂工場が多いのは膠業から発展したものなのだろう。
古くから油を生業にしているからか、マッチやロウソクといった火災事故の可能性が高い工場が多く八尾に作られた。
それは河内木綿が海外の木綿に押され衰退した綿作業からの労働力の転換として、また日銭を稼がないといけない被差別部落の労働力確保もあった。
住民が嫌う工場の担い手であったという現状が垣間見れる
また当時は豚の毛によるブラシ生産も盛んとなり、今では近代的な歯ブラシの生産拠点となり、国内1位の生産拠点となっている。
同和推進校で育った私
昭和当時、小学生であった私は同和問題という課題に、生まれ育った町に非常に大きな影のようなものを感じておりました。
高美地区、高美南地区、安中地区と八尾市には同和推進地区と呼ばれる学校区内がありましたが、それらが八尾座と呼ばれた歴史を今回初めて知った。
なんだか最後は夏休みの読書感想文のようになりましたが、超ローカルな歴史を紐解くきっかけになれれば幸いです。
ではでは。