暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

知れば誰かに話したくなる時代劇「水戸黄門」誕生秘話

最近、睡眠導入のためにふとんの中でYoutubeを聞いているんだけど、ちょっと面白い話があったのでご紹介。

 

江戸幕府の初代将軍、徳川家康の直系の子孫が治めていたのが徳川御三家と呼ばれる尾張徳川家、水戸徳川家、紀州徳川家。

その徳川御三家である水戸徳川家の初代藩主である徳川頼房(よりふさ)のお話。
徳川頼房(よりふさ)には正室(本妻)はいないが側室(側妻)が9人もいたそうだ。
その側室の一人である久子が徳川頼房(よりふさ)との子を身籠ると、他の側室の一人が嫉妬心から、頼房(よりふさ)に久子の子をおろしてほしいと懇願したそうだ。

そして頼房(よりふさ)はその願いを受け入れた。

 

頼房(よりふさ)は家老である三木 之次(みき ゆきつぐ)、通称仁兵衛に久子の子をおろすよう命令をする。
久子は2度、頼房(よりふさ)との子を身籠っているが、仁兵衛はどちらの出産の際も頼房(よりふさ)に堕胎を命じられた。


藩主の命令は絶対であるものの、仁兵衛は久子のことをあまりにも不憫であると思い、仁兵衛と頼房の乳母だった武佐の夫妻で久子を匿うことにした。
そして久子は江戸麹町の三木家別邸で頼重を出産。
水戸城下の三木邸で光圀を出産した。


光圀は幼少のころから非凡な才能の持ち主として、着々と頭角を現し、ついには頼房(よりふさ)が嫡男として認め、後継ぎとして指名するまでになった。

それが水戸藩の第2代藩主である徳川光圀、後に水戸黄門と呼ばれる人物。
もし、仁兵衛が久子を匿っていなければ、今の水戸黄門は存在していないということになる。

さて、話は江戸初期から時間はさらに進んで大正7年。
三木 之次(みき ゆきつぐ)仁兵衛の子孫である三木啓次郎(みき けいじろう)という人物がいた。
三木啓次郎(みき けいじろう)は桜田門外の変を起こしたのち逃走し自刃した水戸浪士の霊を慰めるため、大阪四天王寺境内を訪れたのだった。

すると四天王寺の寺前で何やら面白そうなものを売っている青年がいた。
三木啓次郎(みき けいじろう)はその青年が売っているものを目にすると、これは必ずヒット商品となるだろうと直感。
そして、青年は経済的に困窮していると話を聞くと、自らが持つ水戸の田畑を抵当にしてこの青年を援助した。

この青年が寺前で売っていたものとは二股ソケットであり、青年とは松下電器創業者である松下幸之助であった。


支援を受けた二股ソケットは大ヒットとなり、松下電器は日本を代表する大会社となるのである。
三木啓次郎(みき けいじろう)から大きな恩を受けた松下幸之助。
その恩返しをしたいと考えた結果。
松下電器1社提供であるナショナル劇場「水戸黄門」を放送。
約40年間放送され、日本国中に水戸黄門、徳川光圀の名を広めたわけだ。

そもそもは徳川頼房(よりふさ)が子をおろせと命じた三木 之次(みき ゆきつぐ)が命を繋ぎ、徳川光圀が生まれた。
そしてその三木 之次(みき ゆきつぐ)の子孫、三木啓次郎(みき けいじろう)が松下幸之助を支援し、
松下幸之助が水戸黄門を全国に広めるというこの巡りあわせ。

なんとも感慨深いお話。

あまりに素敵な巡りあわせで眠るどころか、誰かに言いたいぞ!って逆に目が覚めてしもうたわ。


ってことで今日はこれまで。
ではでは。