さてさて、GW後半初日です。
あれだけ楽しみにしていたGWですが、いざ始まって見るとなんだか何処に行っても混雑してるしなぁ~。
ってことで遠出が億劫になりがちなんですな。
ってことで、今日は単焦点レンズを持って近場をブラブラ街散歩って感じです。
大阪葛井寺へ
で、やって来たのは近鉄藤井寺駅。
ちょっと歴史散歩でもっていう事で藤井寺駅から散策開始です。
駅前から伸びる藤井寺一番商店街を歩いていくと・・・
見えてくるのは葛井寺。
その名の通り古代氏族葛井氏の氏寺であり、藤の花でも有名なお寺。
只今、国宝である十一面千手千眼観音の開眼1300年ということで特別拝観が行われている。
この日は特別な行事があるらしく、沢山の人が訪れていた。
お参りを済ませて藤の花の状況はというと・・・
さすがに遅すぎたわ。
なんじゃこりゃの藤井寺アイセルシュラホールへ
さて、趣のある葛井寺参拝道を南へと散策していくと・・・
なんじゃこりゃ~!
というドデカい建物が見えてくる。
宗教施設?とも勘違いしそうな建物だが。
実は生涯学習センター「アイセルシュラホール」という。
舟形の埴輪をモチーフにして建てられ施設なんだ。
いやいや、めちゃめちゃ気合が入った建物じゃないかぁ。
こりゃ大阪府民でも知ってる人は少ないだろう。
ちょっと駅から離れてるし、意外に近くまで行かないとドドーンと見えてこないんだな。
で、館内は歴史資料展示スペースがあって無料で拝観出来るんだ。
もちろん、藤井寺と言えば古墳だ。
百舌鳥古墳群と古市古墳群は世界最大級の王墓として、エジプトのピラミッドと肩を並べる巨大さなのだ。
おっと、無料とはいえミュージアム感があるではないか。
古墳づくりと言えば古代豪族である土師氏である。
土師氏の歴史に関する話は後に話そうかと思う。
懐かしの近鉄バッファローズ
そして藤井寺と言えば近鉄バッファローズ。
私も幼少の時はこの近鉄の帽子をかぶっていた。
アイセルシュラホールには近鉄バッファローズの展示コーナーもあった。
ちなみに葛井寺の境内の隅っこには当時、藤井寺駅にあったバッファローズの試合速報のスコアボードが残されている。
こちらは1955年の藤井寺駅。
今の面影はほとんど感じられない。
こちらは昭和32年の阿倍野百貨店。
玉手山まんが博って書いてあるのが分かる。
この急行電車もなつかしいなぁ。
さて、懐かしい昔話はこの辺りにして、古墳や埴輪の歴史の話に戻そう。
菅原道真の始祖である土師氏の歴史
さて、大阪夏の陣の合戦場であった道明寺。
近鉄道明寺駅のほど近くにあるのが。
ここ道明寺天満宮。
菅原道真を祀る神社である。
で、ここは土師氏の氏神でもある。
垂仁天皇が治める大和朝廷時代。
当麻蹴速(たいまのけはや)という力自慢の男がいた。
当麻蹴速(たいまのけはや)は「この世で自分と互角に力比べが出来るものがいれば対戦したいものだ」と豪語。
それを聞いた天皇は、互角に戦える者として、出雲の国から野見宿禰(のみのすくね)という男を呼び寄せる。
そして二人を目の前で戦わせた。
その結果、野見宿禰(のみのすくね)が勝つ。
これがこの国初の相撲であった。
勝利した野見宿禰(のみのすくね)は出雲には帰らず垂仁天皇に仕えるようになる。
垂仁天皇の時代は貴族の墓には人々を生き埋めにする殉死の風習があり、生き埋めにあった人々は、泣き叫び見るに耐えない光景であった。
そこで野見宿禰(のみのすくね)は生きた人々ではなく、土で作った人形などを並べてはどうかと垂仁天皇に進言。
垂仁天皇はその進言を受け入れ、野見宿禰(のみのすくね)は出雲から100人の技師を呼び寄せ、土で人形を作らせた。
これが埴輪となり、垂仁天皇は野見宿禰(のみのすくね)に土師(はじ)の姓を与える。
その後、土師氏は葬儀全般をまつり、一大勢力の豪族となった。
それから300年後の飛鳥時代に仏教が伝来。
仏教の広まりと共に火葬文化が広がり、古墳の造営は禁止された。
そして職を失った土師氏一族は培った知識を活かし学者一族へと変貌していく。
平城京の時代となり、土師氏は天皇の教師として、奈良の菅原という地に移住。
これを機に、姓を土師から菅原に変える。
これが菅原道真へと繋がっていくわけだ。
道明寺天満宮には土師氏の臺跡の碑が残されている。
で、こちらは道明寺天満宮からほど近い道明寺。(ややこしい)
藤原道真が大宰府に左遷される時、叔母がいる土師寺(現道明寺)によることを許可され、叔母との別れを惜しんだ。
その時に菅原道真は小刀で十一面観音菩薩立像を掘り、その小刀と十一面観音菩薩立像は国宝に指定されている。
そして土師寺は、菅原道真の幼少期の名前である道明の名を取り、道明寺とその名が変わった。
というのが土師氏と菅原道真の歴史でしたとさ。
ということで今日はここまで。
ではでは。