津波の避難の標語といえば「津波てんでんこ」。
が有名であるが、「津波てんでんこ」が出来るはるか前にも防災に対するとても良い教材があるので紹介をしたい。
それは1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。
防災教材として高く評価されている和歌山県で起きた津波の教訓「稲むらに火」。
これは1854年に現在の和歌山県有田郡広川町で起きた実話。
「これはただ事ではない。」
そうつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。
今の地震は特に激しいというほどのものでもなかったが、長くゆったりとした揺れ方と唸るような地鳴り、五兵衛はこれまで経験したことがない不気味なものであった。
五兵衛は自分の家の庭から、下の村の様子をうかがった。
下の村では豊作を祝う祭りの支度に大わらわで先ほどの地震を気にしている気配はない。
五兵衛はそんな村の様子を確認すると、今度は海へと視線を移した。
すると、吹く風とは反対に波が沖へと引いていくのが見える。
みるみるうちに、波が引き、海底の広い砂原や黒い岩底があらわになってくる。
「こりゃ大変だ!大きな津波がやって来るに違いない。」
と、五兵衛は思った。
このままだと、400名の村人の命が村もろとも、津波にのみ込まれる。
もう一刻の猶予はない。
「よし。」
と叫んで家の中に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出した。
家の前の田んぼには収穫したばかりのたくさんの稲穂が干してある。
「もったいないがこれで村中の命が救えるのなら。」
と、五兵衛はいきなり、その稲穂のひとつに松明の火を移した。
海から吹く風にあおられて、火の手は一気に広がった。
稲穂を一つ、また一つと五兵衛は夢中で稲穂に火を移していった。
そうして、自分の田んぼのすべての稲穂に火をつけると、松明を捨て、五兵衛はそこに突っ立ち、沖の方を眺めた。
日はすでに落ち、あたりがだんだん薄暗くなって来た。
稲むらの火は暗くなる空を明るく灯した。
山寺では、この火を見て、火事だとして、早鐘をつき始めた。
「火事だ。庄屋さんの家が火事だ!」
と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。
続いて、老人も、女性も、子供も、若者の後を追うように山手へと駆け出した。
高台の田んぼから、村の様子を見おろす五兵衛の目には、その姿が蟻の歩みのようにもどかしく思われた。
ようやく20人程度の若者が駆け上がって来た。
彼らはすぐに火を消火しようとする。
五兵衛は大声で怒鳴った。
「そのまま燃やしておけ!大変だ!村中の人に高台に来てもらうんだ!」
村中の人は。追々集まってきた。
五兵衛は、後から後から高台に上がってくる老若男女を一人一人導いた。
集まって来た村人は燃えている稲むらを消火するでもない五兵衛の顔と燃え上がる稲むらを代わる代わる見ては、何事なのだと不可解そうであった。
その後、五兵衛は力いっぱいの声を張り上げて叫んだ。
「見ろぉ~。津波がやってきたぞぉ~!」
村人達は、たそがれの薄明りをすかして、五兵衛の指さす方に目をやった。
遠くの海の端に、細く一筋の線が見えた。
その線は見る見る太く大きく広がった。
そして非常な速さで村の目前へと押し寄せて来た。
「津波だ!」
と誰かが叫んだ。
海水が絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと雷のようなとどろきを持って津波は陸へとぶつかった。
あまりの津波の迫力に人々は身を引いた。
村へと突撃してきた大きな津波の水煙で、何も見えなくなり、それは天まで届くようであった。
村人は自分たちの村の上を荒れ狂って通る恐ろしい海を見た。
津波は二度も三度も村を進みまた退いた。
高台ではその光景を見ていた村人。
誰も声を発するものはなく、ただただ、津波にのみ込まれる村を眺めるだけだった。
稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕闇に包まれたあたりを明るく照らした。
はじめて我にかえった村人は、この火によって我々は救われたのだと気が付くと、無言のまま、五兵衛の前にひざまづいてしまった。
なんとも良くできた話だこと。
津波の怖さと判断の難しさ、避難活動の機転などがよく分かるエピソード。
和歌山以外の関西エリアでも津波の恐ろしさを伝える伝説が多々あり、兵庫県神戸市にある標高328mの高取山にはその名の由来が津波に関係している。
高取山はその昔、タコ取り山と言われていたそうな。
大きな津波が神戸を襲い、その波は高取山まで達し、津波が引いた後、山の山頂でタコが見つかったのだとか。
おいおい六甲山ろくまで達する津波って!
ってツッコミたくもなるのだが、大袈裟に語られるぐらいの方が、防災意識って高まるってもんだと思う。
東日本大震災から10年という節目に、ぜひ知ってもらいたい防災教材なのでした。
ではでは。