- 全国で一番広い面積の重伝建、長野県の妻籠宿へ その広さは大阪の門真市とほぼ同じ。
- 妻籠宿に来たら絶対見るべき脇本陣奥谷
- 妻籠宿の美しい町並み
- 明治時代の芝居小屋「かしも明治座」へ
- 今夜のお宿は中山道43番目の宿場町馬籠宿へ、宿泊している日本人は私一人であった民宿馬籠茶屋
- そして郡上八幡へ
- 旅の最後はモネの池と言われる名もなき池へ
全国で一番広い面積の重伝建、長野県の妻籠宿へ その広さは大阪の門真市とほぼ同じ。
さて、今日は長野県の妻籠宿へ。
中山道六十九次の宿場である長野県の妻籠宿と岐阜県の馬籠宿を巡る1泊2日の旅。
ほんとうはバイクでツーリングを楽しみながらの旅を予定していたのだが、あいにく土曜日は全国的な本降りの雨ということで、残念ながら車で巡る旅となった。
大阪を発ったのは朝の7時30分。
名古屋経由で岐阜から長野へ。(少しでも高速料金を抑えるため)
ここ妻籠宿の観光駐車場に到着したのが11時30分である。
妻籠宿に着いた頃には小雨になっていたのがありがたい。
妻籠宿を訪れている観光客はヨーロッパ・アメリカからの人が多い印象。
ここ、中山道42番目の妻籠宿は400年前の宿場町を今でも色濃く残す。
そして日本有数の広さを誇る重伝建である。
その広さ1245.4ヘクタールもあり、大阪の門真市ほどの広さ。
これほど大きな面積での保存ができたのは妻籠宿が全国に先駆けて昭和40年代と日本が高度経済成長の真っただ中で保存活動を活発に行ったためだろう。
昭和40年代は全国でもまだまだ未開発の地方では古い建物が残っていた。
ではなぜ妻籠の住民は一丸となって活発に保存活動を進めたのか・・・
それは当時、この辺りの集落はみなじり貧であったという事。
時代は鉄道での移動が主流となり宿への需要が急減。
また、仕事を求めて若者が集落を離れて都会へと出ていき、過疎化が問題となった。
宿以外にさしたる産業がない妻籠は過疎化と貧困という問題のさなかにあった。
そこて地域住民が観光開発として妻籠集落の保存を提起。
昭和43年に「売らない・貸さない・壊さない」の信条のもと、「妻籠を愛する会」を設立。
昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。
1245.4ヘクタールという広大な広さは妻籠宿から眺める山々の景色も含めて保存地区としており、建物だけでなく見える景色そのものも400年前にここを訪ねた旅人が眺めたであろう景色とするため。
この広さは全国の重伝建で一番広い。
「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」 | 文化庁
妻籠宿に来たら絶対見るべき脇本陣奥谷
妻籠宿を訪ねたら脇本陣奥谷は絶対に見ておきたい場所。
島崎藤村の初恋の人と言われる「ゆふ」さんの嫁ぎ先がここである。
ちなみ入館料は600円。妻籠宿本陣との共通券なら700円。
建物内に入ると館内ガイドのおばちゃんが約10分程説明をしていくれる。
「まず、火を焚きますね。」
そういわれた私「雰囲気づくりで囲炉裏に火を炊くのかな。」そう思った。
囲炉裏に火が付くと「代々問屋をしていた林氏が務めた家である。」と話が始まる。
この光景どこかで見たことはないだろうか。
格子窓からの光芒が美しい場所として私も何度か写真を見た記憶がある。
「なるほど、あの写真はこの場所だったか!」そう思った私。
「だから囲炉裏に火を入れ、煙を出して光芒を演出するのか!」単なる雰囲気づくりと思った私は浅はかであった。
しかし、今日は雨。
陽射しがないのでダメだなぁ。
館内ガイドのあばさんにそういうと、いやいや晴れても今日はダメなのだと。
光芒が美しいの冬限定、南向きの格子窓から室内まで光が届くのは冬の太陽が南に傾いている時期だけ。
「だから12月~2月にもう一度妻籠に来てくださいな。」と。
時間は正午ごろがシャッターチャンスなんだとか。
脇本陣奥谷は明治10年に総檜づくりで建てられた3階建ての建物で妻籠宿本陣に泊まりきれない役人などを泊める宿として全18室あったそうだ。
総檜造りで建て替えられたのには江戸時代の幕府の政策に関係がある。
ここ妻籠宿のある木曽の木材は昔から良質で、江戸城、名古屋城の築城や造船、土木事業などに使われていた。
約100年間、木曽の木を使い続けて来たため木材が枯渇。
そこで木曽を治める尾張藩が森林保護政策として木曽五木であるヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止。
利用価値の高い材木の伐採を禁止されてしまった地域の人。
困ってしまい隠れて伐採などをしようものなら厳罰処分とされ、「木一本、首一つ」と語り継がれるようになった。
大政奉還後、明治になり木曽五木の伐採禁止もなくなったため、木曽の檜を使った脇本陣奥谷は建て替えられた。
脇本陣奥谷の裏には立派な資料館があり木曽の歴史を学ぶことが出来る。
ちなみに資料館は脇本陣奥谷の入館料に含まれている。
資料館を出るとすぐ目の前が妻籠宿本陣。
妻籠宿本陣は島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄である島崎広助。
当主である島崎広助が東京へ出た後、建物は壊されたものの、平成7年に江戸時代後期の間取りをもとに忠実に復元された。
建物の中には島崎家ゆかりの資料が展示されてある。
妻籠宿の美しい町並み
こうやって写真を眺めていると小雨が降る妻籠宿もなかなか雰囲気があるもんだ。
時刻は午後2時。
約2時間半の滞在。
明治時代の芝居小屋「かしも明治座」へ
さて、続いてやってきたのは先ほどの妻籠宿から車で45分の場所。
かしも明治座。
天気が雨なので建物内で観光が楽しめる場所を探していたらここのたどり着いた。
芝居小屋の前の駐車場に車を停めると、すぐに建物内から地元の方が出てきた。
あいさつをすると「大阪から来たんですか?」と。
車のナンバープレートで分かったんだろう。
大阪からわざわざ来たことが珍しいように受け取れた。
さっそく芝居小屋の中を案内してもらった。
人当たりのいいおじさんで芝居小屋の隅々まで案内をいただき、また様々なエピソードも話していただいた。
まず、このかしも明治館は明治27年に建てられもので、地元の方がお金と労力を出し合って作ったものである。
このあたり中津川や恵那は全国屈指の地芝居の盛行地であったそうだ。
今でも歌舞伎公演や音楽コンサートなども行われるが、公演がない時でも無料で一般公開をしている。
人がいないと建物が悪くなるという理由で窓を開け、通風を行い地元の人が案内をしているのだそう。
建設にかかったお金は当時で1200円だったかと思う。
しかし案内の人はもっと細かな金額まで案内くださったと記憶しているのだが、12〇〇円と細かな金額までは暗記できなかった。
2階の観客席に上がってみるとずいぶんと視界が広がる。
なんと収容人数は600人なのだとか。
このかしも明治座を国の重要文化財にしようと地元の活動があった際、審査・調査のために東京から役人さんが来たのだそう。
結果、明治当時は屋根がなかったので、明治当時の姿、つまり屋根を取っ払えば国の重要文化財として認定されるという運びとなった。
が、これには地元の方が猛反発。
今でも当時の雰囲気は残しつつ、使い勝手がいいように地元の方々が工夫して改善しているにもかかわらず、屋根を取っ払うとは何事。
それなら国の重要文化財にならなくてもいいという事で屋根はそのままに岐阜県の重要文化財となっている。
娘引き幕と言われる引き幕。
男たちは山から木を伐り、100人がかりで曳いたそうな。
それだけの人数でもひと曳きわずか2,3寸だったとか。
それだけ苦労して運んだ木材は樹齢400年の太さ1m、長さ14.5mという巨大な梁となり、その巨大な梁のおかげで大黒柱のない見晴らしのよい舞台となった。
そんな男たちの苦労をねぎらってか、地域の娘さんたちはこの引き幕を贈ったとのこと。
引き幕に書かれているのは役者の名ではなく、この地方の娘さんの名である。
もちろん明治27年に建てられた当時の娘引き幕だ。
案内のおじさん曰く、この引き幕に書かれた家は今でもそのほとんどがこの地域に残っているのだそうだ。
地元の方はこの引き幕を大切に保管できるよう、レプリカを作ろうとしたそうだが、現在ではこれだけの染め物が出来る職人がいないのだそう。
そのことをとても残念がっていた。
続いて舞台を案内いただく。
この舞台幕は中村七之助、中村勘九郎さんがここで歌舞伎を行った際に使用したもので、かしも明治座でしか使えない大きさの舞台幕であったため、ここに寄贈をされたのだそう。
続いて楽屋の控室を案内いただく。
こちらは十八代目 中村 勘三郎が残したサイン。
中村勘九郎、中村七之助さんが訪れた時に勘三郎さんのとなりにサインを残していったのだそう。
実際に中村勘三郎さんがサインをしている写真が飾ってあった。
他にも楽屋の壁には様々な落書きが残されている。
芝居の世界ではこのように楽屋の壁にサインや落書きをする風習があるそう。
楽屋には坂本龍一さんの訃報に関する記事が張られている。
坂本龍一さんは「ついのすみかを日本で選ぶ時期が来た際には、ここ加子母(かしも)と東白川村を重要な候補地として考えたい。それぐらい森の素晴らしさに感動した。」
と記事に掲載されている。
坂本龍一さんは亡くなる前、明治神宮の再開発を見直す旨、東京小池都知事に手紙を送った。
積極的な自然保護活動を行っている坂本龍一さんはここ加子母(かしも)で自然保護に関する協定の調印式に出席した際、ここかしも明治座を訪れている。
その時の坂本龍一さんのサインがこちら。
となりにはスタジオジブリの鈴木としおさんのサインもある。
こちらは一番古いサイン。
明治27年と書いてあるのでかしも明治座が建った年のもの。
もしかしてこけらおとしの時かもしれん。
楽屋はここまで。
続いては楽屋の下にある小道具倉庫。
小道具倉庫を進むと・・・
芝居小屋と言えばこれだ。
奈落への入口。
奈落とは大道具方が廻り舞台を廻したり、スッポンから登場する役者がここを通る。
スッポンとは妖怪、幽霊などの化け物の類が花道から登場したり退場したりする小さなセリの事。
こちらが廻り舞台である。
かしも明治座の廻り舞台は回転するコマまで木製なのでかなりの重労働だろう。
約3人でこの廻り舞台を廻すのだそう。
このような芝居小屋を見学するのは人生初めて。
芝居小屋を見るだけでも価値があるのに、その上、舞台裏である楽屋の様子や風習、なおかつ様々な面白いエピソード話なども聞けるのに無料とはいささか気がひける。
ここでは屋根板寄付というものがある。
かしも明治座は瓦屋根を乗っけると瓦の重みに耐えられないおそれがあり、屋根は裂いた榑板(くれいた)を重ねて屋根を葺いていく榑葺き(くれぶき)
これは20年ごとに屋根を葺き替える必要があり、その板を寄付金として1枚500円で購入することが出来る。
私もこの寄付を行った。
板に住所と氏名を書き、屋根を葺くときは祈祷をしてくれるのだとか。
またしかも明治座の娘引き幕がデザインされた手ぬぐいが500円で売っていたのでこちらも購入。
これでぴったり1000円。
さてと時刻はもう16時前。
そろそろ今夜の宿に向かうとする。
今夜のお宿は中山道43番目の宿場町馬籠宿へ、宿泊している日本人は私一人であった民宿馬籠茶屋
さて、今夜のお宿はここ、中山道43番目の宿場町、馬籠宿にて過ごすことに。
で、今日私がお世話になるお宿がここ、馬籠茶屋。
江戸時代の宿場町のお宿の雰囲気を残すとても魅力のある外観。
ゲストハウスとして海外観光客を積極的に取り込んでいるのだとか。
ちなみに土曜日の宿泊で1泊2食付きで10,230円。安い。
玄関を開けてチェックイン。
玄関を開けてまず目に入ってきたのが「木曽路はすべて山の中である」という島崎藤村の「夜明け前」の序文であった。
玄関には4月中半だというのにまだストーブが煌々と焚かれている。
そう、「木曽路はすべて山の中にある」
山なので多少、下界と比べて気温が低いのだ。
ラウンジだという仏間からは英語で会話が聞こえてくる。
やはり外国の宿泊客が多そうだ。
チェックインに対応してくれたのは東南アジア系の女性。
私の部屋は2階のAGEMATSUという部屋らしい。
細長い廊下を挟んで客室が並んでいる。
私が今日泊まる部屋はこの上松宿という部屋。
馬籠茶屋の部屋名はすべて中山道の宿場町の名がふられている。
私が今晩過ごすお部屋がこちら。
六畳一間のシンプルなお部屋。
一人旅で過ごすのにはこれで十分。
冷蔵庫がないのが少し残念。
缶ビールを購入して冷蔵庫で冷やしておこうと企んでいたのだが・・・
しかし梁の具合や薄い緑色の壁紙に畳敷きはなんとも昭和の和室という落ち着き感がある。
窓の障子もたまらない。
久しぶりに天井から吊るされた照明の紐をカチッカチッと引っ張って照明をつけた。
これ、海外の観光客は照明の付け方分かるのだろうか。
そんなことを考えた。
部屋の隅っこにあるおばあちゃん風の小さな鏡も味わいがあるなぁ。
さてと、荷物を置いて18時の夕食までまだ1時間ほどあるので馬籠宿を散策するかな。
宿を出てみると雨は上がり下界に雲海が広がっていた。
さすが「木曽路はすべて山の中にある」だな。
古い町並み越しに見える遠くの山々の雄大な景色。
雨で艶を帯びた屋根瓦に霞をまとった山系がなんとも美しい。
木曽に来てよかった。
そして雨が降ってよかった。
そう思った。
さて、料理の準備が出来たという事で食事をするために別棟へ。
宿の目の前が食事処として別棟が建っているのだが、風情ある水車よりも目立つポケモンGOのポケスポットのモニュメントがなんともって感じ。
扉を開けると白人の方しかいない。
約8組ほどで20人ぐらいかな。
すべて白人の人ばかりで日本人は私一人であった。
館内を飛び交う会話はすべて英語であり、まるで海外旅行にでも来たかのような錯覚が起きる。
ここで宿泊する日本人は珍しいのか〇〇さん、ご飯のお替りはいかがですか?
と名前を憶えていただけたみたいでご飯のお替りをお願いした。
食事のボリュームは私にはちょうどいい量であった。
お味も申し分ない。
食事を終えたらササっとお風呂に入ってしまおう。
浴場は大人2人が浸かれる湯舟にシャワーが3つ。
洗髪をし、体を洗って湯舟に浸かっていると隣の部屋に泊まっている外国人の方が入ってきた。
「ハイ!」と言われたのでこちらも「ハイ!」とあいさつをする。
私は英語が全く出来ない。
シャワーの温度調整に苦労をしているみたいなので、風呂桶を持って湯舟のお湯を体にかけるジェスチャーをしてみせたのだが、なにやら「風呂桶大丈夫だよ!ありがとう!」みたいなことを言っていたと思う。
いささか余計なお世話であったのかもしれん。
風呂を済ませ、少し夜の馬籠宿を散策しようと外に出たものの。
雨は本降りへと変わっていた。
いたしかたなく部屋へと戻り、関西ではなじみのないメーテレのテレビ番組を眺めつつ、地方独特のCMにこれも旅の醍醐味だなと缶ビールを流し込む。
そして一夜明けて午前7時前。
すっかり雨は上がったみたいだ。
雨も上がったので7時30分の朝食までしばしお散歩。
雨上がりの新鮮な空気と鳥のさえずりが心地よい。
そして本日の朝食がこちら。
やはりこのシンプルさが日本の朝の食事だよな。
相変わらず日本人は私一人。
配膳をするスタッフは〇〇さん、おはようございます!と声を掛けてくれる。
が、周りではGood Morning・・・・・・・
と相変わらず英語しか聞こえてこない。
日本の宿場町でこのような海外旅行気分を味わえるのも面白いもんだ。
今、旅路から帰って来てもう一度行ってみたいという気になっている自分がいる。
早々に朝食を済ませ、午前8時30分にチェックアウト。
外に出てみると空は晴天へと変わっていた。
そして馬籠宿の展望台へと来てみると壮大な木曽の山々の景色が広がっていた。
そして郡上八幡へ
さてさて、岐阜旅行2日目は郡上八幡へ。
この日は郡上八幡の春祭りが行われていた。
清流と名水の城下町、また郡上おどりで有名な郡上八幡。
訪れたかったのはここ。
やなか水のこみち。
郡上八幡は妻籠、馬籠とは違い東南アジアから観光客で賑わっていた。
私の想像と違ってかなり町並みが閑散としていたので早々に郡上八幡を発つ。
旅の最後はモネの池と言われる名もなき池へ
さて、旅の最後の訪問地は岐阜県関市板取にある名もなき池(通称 モネの池)へ。
モネの池が話題となってもうずいぶんと経つが、いまだに駐車場は常に満車の状態。
あちらがモネの池らしい。
集落の神社のそばにあるごくごく普通の池らしい情景。
モネの池を撮影する人達。
いや~しかしどこにでも集落の池という雰囲気なんだけどなぁ。
さて、私が撮影したモネの池。
美しく撮るには真上からの直射日光が必要で池の底に魚形の影が映り水草が色鮮やかになるのだとか。
しかしながらこの日は直射日光がなく、水面に光が差し込まない。
いたしかたなく写真をアンダー気味で撮影することで濃淡を演出してみた。
また水面の映り込みを制御するためのPLフィルターも必須。
なんとなくモネの池っぽく仕上げたつもりだがどうだろう。
という事で今回は1泊2日の岐阜の旅でしたとさ。
ではでは。
っていうか記事書くのにどんだけ時間がかかってるんだ。