暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

戦争末期、ゼロ戦の後継機として期待された紫電改を見に、兵庫県加西市の「soraかさい」に行ってきたぞ。

さてさて、今日やって来たのは兵庫県加西市。
1直線にまっすぐに続く道。
そして広く空間が抜けた場所。
この場所いったいなんだと思います。

 

実は姫路海軍航空隊の鶉野(うずらの)飛行場なんです。
長さ1200m、幅60m(現在は45m)の戦時中の滑走路がほぼそのままの形で残っているのは稀なこと。

なぜ戦時中の海軍の滑走路がそのまま残っているかというと、戦後、自衛隊の訓練基地として使用され、管理されていた。
が、2016年に兵庫県加西市に払い下げられそのままの状態で残され、今では誰でも訪れることが出来る状態。

鶉野(うずらの)飛行場が出来たのは戦時中。
「紫電」「紫電改」を製造していた川西航空機の組み立て工場とテスト飛行場として作られたが、後には神風特攻隊の訓練、出撃基地という役割を担うこととなる。

 

終戦した年、昭和20年2月に姫路海軍航空隊でも神風特別攻撃隊「白鷺隊」が結成された。
63名の若者がこの飛行場から飛び立ち、沖縄で特攻し戦死した。

滑走路には白鷺隊を弔う碑が建てられている。

 

で、今回紹介したいのはこの建物。
「soraかさい」という。
2022年に加西市が鶉野(うずらの)飛行場に建てた平和学習施設。

 

「soraかさい」の目玉がこの川西航空機が製造していた紫電改の実物大模型。
その大きさ、迫力に絶句する。
艦載戦闘機であったゼロ戦は軽量小型であったが、紫電改は戦争末期にゼロ戦の後継機として開発されたもの。

戦況は悪化し、戦場はもはや海の向こうではなく、日本本土となっており、艦載などを考える必要はなく、局地戦闘機として開発された。

ゼロ戦と比べると全長わずか28㎝ほど長いだけだが、装甲が厚く、出力はゼロ戦の2倍。
ゼロ戦の出力は約940馬力(栄エンジン)、紫電改は最大で2,000馬力(誉エンジン)

 

こちらは紫電改のコックピット。

 

ここ鶉野(うずらの)飛行場では紫電466機、紫電改46機が組み立てられた。

 

そして天井から吊り下げられているのが九七式艦上攻撃機の実物大模型。
神風特攻と言えば1人乗りのゼロ戦に詰めるだけの弾薬を積んで特攻するという印象が強いが、この九七式艦上攻撃機の戦争末期の特攻機である。

ゼロ戦は最大250㎏の爆薬1つを搭載できる。
しかし、この九七式艦上攻撃機はその3倍~4倍の800㎏の爆薬を搭載できる。

しかもゼロ戦は1人乗りだが、この九七式艦上攻撃機は3人乗り。
操縦員、偵察員、電信員。
1回の特攻でゼロ戦の3倍以上の爆薬もろとも3人が帰らぬ人となる。

そして特攻の成功率は13%ほどだと聞く。

実物大の模型とはいえ、特攻の恐ろしさを肌で感じるには十分である。

神風特攻隊「白鷺隊」は1945年4月~5月に鶉野(うすらの)飛行場から飛び立ち、そのたった3ヶ月後、同年8月15日に日本は終戦を迎える。

 

アジアの解放という大義名分で戦った大東亜戦争。
当時の戦争理由やら、日本がどのような立場で戦争を始めたのか。
そんなことを考える学習のきっかけに、「saraかさい」がなってくれればいいなぁと思う。
単純に戦争は良くない、悲しいだけでなく、なぜ特攻隊員は特攻をしたのか。
そのほこり高い志、世間の目、郷土愛。
その気持ちは千差万別で、各々に特攻をする理由があった。
大東亜戦争当時の世界における日本の立場や、日本国内の風潮を学びなおすきっかけに。

きっと教科書では習わないあの戦争の全体像が見えてくるはずだと思う。

 

「soraかさい」ではここでしか買えないミュージアムグッズなども売っている。
そのグッズの種類も豊富で驚いた。

ってことで今日はこれまで。
ではでは。