暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

大学ってブログを書くことよりも行く意味がないものなのか

twitter界隈では、大学を行かないでブロガーを目指せば良かったよという話に対して賛否両論のつぶやきが増えている。

私は大学に通ったことがない。

とはいえ何となく周りから聞く感じでは明確な目標もなく、とにかく大学ぐらいはというのが世論なのだと感じる。

私が高校生活を送っていたのは1990年代初頭。

私の中で大学とは特別に選ばれた人が通う物だと思っていた。
私のような凡人が通う場所ではないと思っていたので、大学へ進学するという選択肢はさらさらなく、高校を卒業して就職をするという道しか想像しなかった。

地域格差もあるのかもしれないし、家庭環境もあるのかもしれない。

平成の世でも私の大学に対する印象とは当時そのようなものであった。

正直、誰もが大学に行くのが普通なのだなんて想像をしていなかった。

 

そんな感じで育ったものだから、子供の大学進学に関しても目的がないなら行かないほうがいいのではという考えでもある。

長女は保育の勉強がしたいという明確な目標があったので大学費用を支払った。
次男は大学で学びたいことがないというので、大学には行かせなった。

 

今の世の中、大学に行く本来の意味とか価値観がかなり変わっているのだろう。

就職に有利だとか、せめて大学ぐらいはという考えがあり、我慢して通っているという状況なのかも知れない。

 

今でも怪訝に思うのは「せめて大学ぐらい」という言葉である。

 

子供を育てる親のみとして人生の選択肢を増やしてやりたいという気持ちはもちろんあるのだけれど、何分自分がゲリラ的な生き方をしてきたという事もあり、大学で生き抜く術をマスター出来るのなら通う価値は十分にある。

 

でも、学びたい事が無いのであれば大学に行っても仕方がないと判断をする。

 

大学とは本来、専門分野の知見を伸ばすためのものだろう。
それがとにかく大学を出ておけばという感覚になったから大学の地位が落ちたのではないだろうか。

 

今の世の中、大学に通う事が当たり前という風潮であり、特に学ぶ意思もなく、只々大学に通い、とにかく卒業をするという事が目的となっている。

 

そのために何百万という学費を支払っているとなると、生産性を考えない、単なる無駄遣いだと思う訳である。

 

私の考えでは大学で学ぶ人の熱量によって価値ある4年間となるか無駄な4年間になるかという事。

 

なので、私の子供たちにもそれなりの熱量がなければ大学に行かなくてもよいと言ってきたわけだ。

 

大学に行くよりもブログを書いた方がいいと主張する人はそもそも大学で学ぶ熱量が少なかったのでは思うのだが、どうなのだろうか。