暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

和歌山県の世界遺産、丹生都比売神社がなければ高野山は開山できなかったのかもしれない。

さてさて、今日は和歌山県までバイクツーリング。
天気がいまいちだけど、それより急に気温が下がって寒いのなんの。
また山の上だから一段とね。

 

で、やって来たのは和歌山県の世界遺産 丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)。
ほほん、和歌山県の世界遺産と言えば高野山が有名。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は知らないという人も多いかも。
だがしかし、ここは高野山を開山する空海にとっては始まりの地なのだ。

 

この立派な楼門。
国の重要文化財である。

この神社と高野山の関係を簡単にまとめると。

 

空海が唐へと渡り、真言密教を恵果阿闍梨から授かって日本へと持ち帰る。
そして、唐から日本に帰る船旅の途中、授かった新たな真言密教という仏教を日本のどので開くか修行の場所はどこがいいだろうか?

そう考えながら、なぜだか空海は船の上から法具である三鈷杵を投げるのだ。

そしてその法具はなんと高野山の松の木に引っかかっていたそうだ。


ってそんなの誰が見つけてん!
ことなのですが・・・

なんとこの丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)に祀られている高野御子大神(たかのみこのおおかみ)がその場所を見つけたのである。

で、空海が高野山を訪れる際、高野御子大神(たかのみこのおおかみ)は狩人の姿をして現れる。

その際に白い犬と黒い犬を連れて現れたそうだ。

この時の白い犬と黒い犬が空海を高野山へと導いたという。
この犬が紀州犬の始まりだとか。

ここ天野の地はその昔、聖地であり人が住んではいけない場所だったそうだ。
神社の神主も7㎞離れた紀の川から毎日通っていたという。

そんな聖地である天野のさらに上に高野山を開くといことであるからして
空海は高野山を開く際、
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)にその許しを得たのだそうな。


高野山が出来るまでは、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は56人の神主とお坊さんで守られていたのだとか。
56人という数字も決まっているそうだ。

当時は神社のまわりには屋敷が19軒も建っていたそう。

それは明治政府による神仏分離令まで続いていたそうだ。


国による神仏分離令や廃仏毀釈で、神社とお寺は切り離されたが、

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)と高野山との関係は当時のままお互いをリスペクトしながら今でも続いている。
戦後、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)には神主不在の時期があったそうだ。
月次祭を行うこともままならないほど疲弊していたらしい。
そんな時期でも高野山ではお坊さんが御輿を担ぎ、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)のお祭りを行っていたそうだ。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)が疲弊をしている時も、山の上の高野山ではしっかりと御社を守り、祭事を欠かすことがなかったそう。

また、国が高野山に対して、高野山の御社を壊すように命令したが、高野山は断固拒否。

大日如来が神に姿を変えたのが呼丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)である。
よってこの御社は神様ではなく大日如来を祀っているので神社ではない。

という方便だったそうだ。

 

で、ここ天野の里は、白州正子が「天の一廓に開けた夢の園」と感嘆した日本の原風景が広がる集落なのだ。
白州正子はこの地を古事記の神々が住まう高天原に例えたのだそう。

なんとなく分かるような気がする。
ってことで今日はこれまで。
ではでは。