暮らしの顛末(くまくまコアラ)

50代サラリーマン、趣味は1人旅、バイクツーリング、写真撮影、温泉、銭湯巡り。 古い町並みが好きで歴史を感じる関西の各所をブログで紹介しています Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。 愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

26年前の1月17日、神戸・淡路大震災の記憶

月曜日の早朝5時46分。
大阪で実家暮らしだった私は激しい震動で目が覚めた。

築30年以上の木造住宅はこれまでに経験したことのない横揺れ。
2階の自分部屋の布団の上で四つん這いになりながら様子を伺っていると・・・

激しく階段を駆け上る音が聞こえた。
1階の部屋で寝ていた母親だった。

激しく揺すぶられる体を固定するため、両手で柱につかまり、私の状況を確認しにきたのだ。

私はとっさに動けなかったのに、母親はよくとっさに階段を駆け上れたもんだ。
子を思う親のとっさの行動って凄いと思う。

激しい揺れが収まったところで、テレビをつける。
朝の6時前。

日の出は遅く、外は真っ暗。
この時、番組を切り替えて報道を始めたのはNHKのみだったと思う。


早速、神戸在住のNHKスタッフと電話がつながったらしく。

スタジオにいるアナウンサーから「現在の状況はどんな感じですか?」
といたって冷静にふったわけだが・・・

「前の家がつぶれて・・・隣の家もつぶれて、人を助けなきゃ、あぁ。ダメだ。壊滅的だ。全部潰れている・・・あぁ。どうしよう。あぁ。レポートしている状況じゃない」

そんな感じの第一報だったと思う。

冷静さを欠いた電話にスタジオの空気が一瞬で変わったのを覚えている。

こりゃただ事じゃないなぁ。
そう思った。

その後、朝の段階では日が明けないので全貌がまだ分からない。
とにかく会社に出社せねば。

車で会社に向かうと出社出来ている人は3分の1ぐらい。

激しい揺れで現像液が混合してしまっているので現像槽の清掃をみんなで行う。
その日は仕事どころではなかった。

日が昇って阪神高速が倒れていることなど徐々に状況が分かってくる。
あちらこちらでガス漏れによる火災が起こってるのだとのこと。

社内で流れているFM802で情報を知る。

当時、FM802のヘビーローテーションは「ジャンジャンバリバリパチンコマン」という歌だったが、この震災で全く放送されなくなった。

商業施設ではバーゲンシーズンなんだが、バーゲンの自粛。
とはいえ梅田界隈ではショッピングを楽しむ人も多い。

京阪神沿線の神戸だけが、移動もままならないし、ショッピングどころではない惨状でありながら、梅田界隈は賑わっているという県境の温度差。

災害は孤立を生むという恐怖を始めて知った。

FM802では連日、水が足らない。タオルが足らない。毛布が足らない。食料が回ってこない。との報道。

震災が起こってから数日経っても大混乱は収まらない。

報道関係者はカメラを向けるも目に涙があふれて泣きながらピントを合わせたとか。
連日の報道で疲れがたまって神戸へと向かう途中に交通事故を起こして死亡したとか。

二次災害ともいえる事態が増えているそう。

そんな中、何か出来ないかと思い、震災の翌週の日曜日に物資を届けようと、ポリタンクに水道水を貯め、タオル、毛布、寝袋などキャンプ道具を車に詰めて神戸へと向かう。

確か土曜日の夕方ごろに家を出たのだが。
神戸へと向かう国道2号線は大渋滞。

自衛隊の車やら、震災物資運搬という貼り紙をした車やら。

なかでも〇〇教団やら〇〇教会という即席の貼り紙をしたワンボックスカーが目立つ。

「こんな時に教団のPRかよ!ふざけんな!」

その頃、まだ若い私は各教団がこの後に及んでの教団のPRをしていることに偽善者だという怒りが収まらなかった。

神戸・淡路大震災はボランティア元年ともいわれ、良くも悪くともボランティア精神とその行動の是非が問われた。

結局どこまで行ったのだろうか。
確か被害の大きい長田区辺りまでたどり着いたのは7~8時間後。

深夜だったと思う。

停電しているので街灯はなく、進む先は真っ暗。

細い住宅街に入って来たけれど、暗すぎて回りの状況が分からず、車を停めて車外に出てみる。

タバコを吸おうと思ったが、少々ガス臭い。

前方の道の状況を確認するため10mほど歩いてみると。

道がない。
完全に陥没している。

気付かなかったら車ごと落ちていたかもしれん。

持参した物資をどこに届ければいいのか。
そんなことも考えずに家を出てきたもので。
とにかく引き返して区役所へと向かう。

区役所にて、持参したものをどこの避難所に届けつべきかを教えてもらい。

その避難所に夜中にたどり着いたのいいんだけれど。
避難所は真っ暗。

若い私は中に入っていいんだか。
それともみんな寝ているっぽいのでそっとするべきか。

夜中の避難所は人けがない。

本当にここ避難所なのか。

とりあえず持っていた物資を避難所を思える建物の玄関に置いてその場を立ち去った。

大阪への帰り。

無造作に置かれた水や食料って怪しまれないかなぁ。

この行為は本当に役立っているのだろうか。

そんなことを考えていた。

ボランティア元年。

若い自分が単独で出来ることの無力感。

組織だった自衛隊の救助はもちろん、各教団のPRを兼ねた支援であっても
大人の世界は各々の組織で行政と連携して貢献してる。

私が行った稚拙で幼稚な衝動だけの行動。

あぁボランティアって組織的な何かに準じて行動しないと意味がないのだなぁと感じた26年前の1月だった。

そんなことを思い出した今日この頃です。

ではでは。