暮らしの顛末(くまくまコアラ)

40代サラリーマン、Canon EOS RとRICOH GR IIIを愛用して観光地巡りやら旅行、アウトドアで風景写真やらを撮っているミニマリストのブログ。愛車は1号機DAHONのRoute。2号機Kawasaki Versys-X250。3号機TOYOTA のプリウス

宇江敏勝著「山びとの記」木の国 果無山脈を読了。昭和初期の炭焼きの暮らしぶり、林業全盛期の山の生業が生生しく書かれた良著

いやいや、久しぶりに面白い本と出合った。
本書は1980年に発刊されたものの増補新版である。
著者は昭和12年に和歌山県、奈良県、三重県にまたがる紀伊山地の山奥の炭焼き家族の長男として生まれ、祖父、父、著者と代々山奥の炭焼きの暮らしをしてきた。
若くして炭焼きとして独立し、炭焼き需要がなくなると造林事業の携わり、昭和時代の林業全盛期の暮らしぶりや生業を生生しく描いた名著である。

炭焼き時代のエピソード

母親の生年月日は戸籍上では大正12年となっているのだが実際には大正9年の生まれらしい。
実際の生まれ年と戸籍上の生まれ年が違うとは今では考えられないがそのエピソードが当時の感覚が伝わり面白い。

山奥の炭焼き屋はそうそうに役場に行くことが出来ないので、出生届が提出できたのが生まれて3年後となった。
また、当時は戸籍などそれほど重要視されていなかったので出生届を提出した年が生まれ年となった。
多分当時は記載方法などもよく分からなかったのかも。
また、子供が生まれても育つものかもわからないという考えもあったそうな。
著者も出生届が出されたの3年後の昭和15年だったという。
だが、この時はしっかりと昭和12年生まれとして正確に届けられている。

当時の山びとの感覚がうかがえる面白いエピソードである。
今なら年金受給やら生命保険の加入などでいろいろと不平等がありそうだが。

また、炭焼き屋は炭にする木を伐りつくすと、新たな場所を求めて移動、移動した場所で新たな窯を作り、小屋を建てて、家族で暮らしたそうな。

祖父の時代には十津川村や下北山村、前鬼谷、池原谷と点々と場所を変えて炭を焼いたらしい。

大正時代、木炭の需要は急速に高まっていく。
SL機関車が走り、工業が発達していくと工業用に木炭が大量に使用されるようになり、家庭用木炭が急速に品不足に。
木炭飢饉と騒がれるほどとなり木炭の価格が暴騰したそうな。
一時、経済恐慌で木炭の価格が暴落するものの、昭和12年の日華事変以降、軍需景気で木炭の需要が高まり、木炭は政府統制されるほどとなった。

炭焼きの需要が高まると人々はこぞって炭を焼き、山奥の炭焼き屋は数軒の集落となる。
集落となった炭焼きには世話人が出来て、炭の運搬、取れ高などを管理するのだそう。
炭焼きって山を点々と渡り歩いて勝手に窯を作って炭を作るのではない。
山の利用料を支払って炭を作る。
里に近い山は利用料が高く、里から遠く不便な山の利用料は安い。
だからより安い山を求めて山奥へと拠点を移すのだ。

山奥の急斜面に廃村があったりするけど、なるほど山奥に集落があるのは炭焼き集落だったのかも。
なんて納得してしまった。

著者は高校を卒業して一度は和歌山県田辺市の会社に就職するも三か月でやめて山に戻り炭焼き屋と自立することに。

昭和三十三年になると炭の需要は減少。
石油やプロパンガスにとって代わり炭焼きでは食べていけず、当時地域をあげて力を入れていた人工造林の仕事をすることに。

造林プロジェクトに参加

著者は炭焼きをやめて、和歌山県の西ン谷、果無山脈、十津川村、野迫川村と様々な造林プロジェクトを経験する。

どれも数年単位のプロジェクトで山小屋の飯場暮らし。
昭和33年には西ン谷の造林プロジェクト。
植林地の下草刈作業が1ヘクタール4000円。
地拵え(じぞろえ)の単価が1ヘクタール24000円~27000円という出来高制。
これを数人の班で行い、分け前を分担するのだそう。
当時は国家緑化運動が盛んに叫ばれた時代。
森林組合にもそれなりの予算があったそうな。

山小屋にはカシキと呼ばれる炊事係が雇われ主に里の婦人が担当したそう。
この時代の山小屋はガスも電気も電話もない時代。
唯一の娯楽といえば里に来る巡回映画を公民館や小学校で見るぐらいだったという。
また若い女性と会う機会もこの上映会なのだ。

西ン谷の造林プロジェクトを終え、昭和41年には果無山脈のナメラ谷の造林プロジェクトへ。
この頃になると山小屋に発電機が設置され、テレビも備え付けられる。
植林の単価は苗木1本で12円50銭。
1日のノルマは400本なので日当が5000円ほど。
山仕事は地拵え(じぞろえ)、下草刈、植林と時期に応じて作業内容が異なる。
職員である現場監督の月収が43300円で、著者の月収は95000円だから林業従事者もそれなりに稼げた時代だったそう。

昭和48年からは奈良県野追川村での造林プロジェクトに参加。
この頃になると山小屋にはプロパンガスが設置され山小屋はプレハブ造りとなる。

振動病という病を知る

昭和48年からは奈良県野迫川村の造林プロジェクトに参加。
この頃になると斧、鋸、鉈に変わってチェーンソーや草刈機が使用されるようになる。
これまで鍛冶職人が作った刃物を丁寧に研ぎ、その刃の切れ味を競った時代は終わり工業製品が仕事道具となる。
この機械の振動を長時間、体に受けることによって難聴、心臓障害、自律、中枢神経の異常、さらには生殖障害にまでいたるという。
今では振動病として職業病として認定され、労働省はチェーンソーの使用は1日に2時間以内と行政指導をしているが、それでは仕事にならないのである。
林業の最前線で仕事をしている約8割が振動病に悩まされているという。
こんな事実は全然知らなかったわ。

手つかずの森林保全の現状

著者は平成17年に自身が造林した西ン谷、果無山脈、野迫川村を再度訪れている。
造林した後、数年は下草刈をする必要があり、その後、数十年間は間伐を行い樹木の成長を管理するのだがどこの造林を訪ねても手入れがされていないのだとか。
山小屋で生活をし、早朝から夕暮れまで汗水垂らして開拓して造林した著者の苦労が後世に活かされてない。
この時に感じた徒労感はいかほどのものなのだろうか。
ご存じの通り、国内の木材需要は格安の輸入木材にとって代わり、割高の国産木材の需要が激減。
林野庁は膨大な赤字をなくすためにコストを削減し、国内の森林管理は必要最小限になったのである。
昭和初期にあれほどの予算を割いて造林を進めたにも関わらず、いざ材木としてその出荷時期を迎えた山林は手つかずのまま放置されているありさま。

「京都議定書」の推進でCO2の削減目的として森林保存の気運が高まる世論を利用して和歌山では「緑の雇用」なるものをはじめ、国の財政的支援を取り付けたがそれでも森林組合の財政は改善せず、金融機関からの借金の返済期限がせまる。

すぐにでも現金が必要な状況から、山林を大阪の産廃処理業者に売却するという話が浮上するが地域住民が反対。

運よく、和歌山県の辺野古道が熊野古道のユネスコ世界文化遺産の候補になったことで行政は奮い立ち、産廃処理場が出来ることで印象が悪くなることを恐れ、山林を1億円で買収したいと森林組合に申し入れがあったのだそう。
こうして産廃処理業者への売却はまぬがれた。

なんかこういう行政の対応も自分たちの文化を軽視している感じでやるせない。
ユネスコがなんだというのか。
世界文化遺産候補とか関係なく、自分たちの文化を保全する気概ってものがないのだろうか。

いやいや、昭和初期から高度経済成長期の紀州山地の山の中。
炭焼きを経て林業を生業にした生活ぶりとその文化が生々しく書かれた名著であったなぁと。

好きな人はハマるんだろうな。

ってことで今日はこれまで。
ではでは。

ちなみに私も果無集落を訪ねたことがあるので興味がある方はこちらで。

www.smilejapan.jp