うちの嫁さんは肉が苦手。
脂っこいものも苦手である。
そして私は野菜を好まない。
ブロッコリーなどは本当に手に負えない食べ物だ。
そこでこんな事を考えた。
野菜を食べなさいとよく親に言われたものだ。
それを拒むと当然「好き嫌いなく食べなさい!」とぐちぐちと言われたものだ。
だが、肉を食べなさいと親に言われたとする。
それを拒んでも「好き嫌いなく食べなさい!」とぐちぐち言われることはない。
これって同じ好き嫌いなのに不公平だと思わない。
偶然、生野菜が苦手というだけなのだが、不摂生的な印象を受ける。
かたや偶然、肉が苦手で野菜ばかり食べている人は何だか社会的には好印象。
ならば私も肉嫌いの野菜好きで生まれれば良かった。
人生努力をしても報われない根源はこの食べ物の好き嫌いでも語れる。
私がいくら努力をして野菜を食べたところで、本当の野菜好きには到底かなわない。
本当の野菜好きの方が親から褒められる。
社会的に褒められやすいものが好みの人が有利なのかもしれん。
例えば、読書が好きな人は褒められる。
だが、読書が苦手でゲームが好きな人はあまり褒められない。
偶然、好きになったものがただ読書かゲームかの違いなだけ。
どちらも努力をしている訳ではなく、かたや寝食を忘れて読書を楽しむ人。
かたや寝食を忘れてゲームを楽しむ人。
あくまでもこれは例えでゲームがどうのこうの言うものではない。
例えば好きで朝から一日中、山で植物観察調査をしている人。
かたや朝から一日中、野池でヘラブナ釣りをしている人。
どちらも同じ、自然との対峙であってもその行動から受ける印象は随分と違う。
かたや社会意義がありそうなものであるのに対し、かたやのんびりとした道楽という印象を受ける。
私の今の現状はというと、理性が植物観察調査が好きというスイッチになっていて、魂ではヘラブナ釣りがしたいというアンバランスな状態とでもいうのだろうか。
ヘラブナ釣りをしても良いことはないだろう。
植物観察調査の方が聞こえがいいじゃないか。
(これはあくまでも例えですけど・・・)
そのような自問自答を繰り返す。
要するに社会的意義があるものに没頭すべき、でも本当にしたいことは特に社会的意義があるものではない。
だから本当にしたいことは定年後の楽しみにおいておこう。
今はもっと社会的意義あるもの情熱を注ぐべき。
そんな考えが頭をもたげる。
だが、もし定年までに死んでしまったら・・・
そんな事も考える。
本当にやりたいことがそもそも社会意義があるという人はいい。
だが、私のように本当にやりたいことに社会意義があまりない人はどのようにその熱量を注げばいいのだろうか。
引退するような年であればまぁ好きにすれば良いのだけれど・・・
まだまだ現役世代なので、社会に役立つよう担いたい。
最近、そのようなもんもんとした悩みを抱えております。
うーむ、何だか言いたいことがうまくまとめられないけれど・・・
そして結局何が言いたいんだって感じなのだが・・・
ではでは。